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明晰夢と自由意志

昼寝をしていたら、久しぶりに悪夢を見た。
飛び起きるような驚きを伴うようなものではなく、人倫にもとるような事態が淡々と続くタイプのもので、見ていて「これは嫌だなぁ」と思っていた。
夢の中で結構しっかりと「これは夢である」と認識できていたわけだ。一般に明晰夢と呼ばれる現象である。

明晰夢を見るのもかなり久しぶりで、恐らく私が明晰夢を見るたびに思い返しているであろう疑問が今回も惹起されたので、今日の記事としてぼちぼち書いていくことにする。

まず、少なくとも私が見ている明晰夢と呼ばれるものについて、本当に夢の中で夢であることを認識しているのかどうかが怪しい、という考えがある。
かなり分かりづらい書き方をしてしまった。つまり、「明晰夢を見ている」というところまでが夢であったり、夢から覚めた直後の段階における「すごい夢だった」というような感想が、夢からの覚醒と前後関係があやふやになることによって「明晰夢を見た」という誤認が生じているのではないか、という疑念があるのだ。
総じて「明晰夢を見ているというのは錯覚ではないか」という疑問だと言えるだろう。これがまず一つ。

次に、「明晰夢」という名称そのものに関する疑念がある。
明晰夢という語の意味するところのものは「その最中で夢であることが明らかに分かるような(明晰である)夢」というものである。
しかし、「夢の中で「これは夢だ」という認識が生じること」をして「明晰である」と称するのは誤謬ではないか。
夢から覚めることで結果としてその認識が真であることが分かるだけで(ここでは「胡蝶の夢」のような事態を考慮しない。これもまた根本的な問題の一つであり、実際この話題の次に触れるが、話が拗れるのでここでは仮に真である基底現実が存在するものとする)、「これは夢だ」という認識自体は、夢の中で起こる他の架空の出来事と同質のものであるはずだ。夢の中で空を飛ぶことと、夢の中で「これは夢だ」と思うことに区別を与えるのは、自然ではあるが根拠がない。
「夢であった」という事実と「これは夢だ」という夢の内容が近接していることによる誤認が起こっている。実際はそれが夢であることと「夢だ」という自覚があることの間には何の関係もない。明晰夢を明晰であるとするのは、結果論的誤謬である。

そして、ここまで明晰夢、というか夢という概念に触れてきた以上、「どれが夢でどれが現実なのか」という疑問についてもまた考えずにはいられない。
これに関しては明確に私はこう考える、という自論はない。それを構築するにはあまりにも手掛かりがない。
先の段落の読みづらい丸括弧の中で「胡蝶の夢」について言及した。
胡蝶の夢は、夢と現の区別の不明性に関する言葉であり、これについて明確な答えを出すのは非常に難しい。判断材料がないので「不可能である」と断定することもまたできない。
上の二つと比べるとかなりふわっとして空想じみた話題に思われるかもしれないが、そう考えざるを得ないほどに我々の認識の問題に深く根差した話なのだ。話のスケールが一回り二回り違う。

この辺りまで急速に考えを進めて、「まぁ考えても仕方ないか」となって内容を忘れていくわけだ。
そしてまた印象的な夢を見るといった契機があるたびにこういった考えに耽り、時にその内容を更新したり新しい疑問を発見したりする。
大学一年生の頃に教養の授業で心理学を履修し、夢に関する講義を受け、先生に「夢って視覚情報なんですか?」といった質問をして以来、夢というテーマは私の人生の中でもかなり頻繁に再出現し、考え事に耽らせてくれる。
「夢が視覚情報なのか否か」という当時の疑問については、今でも明確な答えを得られていない。質問した以上は先生から回答があったはずだが、その回答では私の納得のいく説明がされなったということだけを覚えている。
こうした疑問について、登校して講義を受けるだけで質疑の時間などに専門家に教えを乞うことができるという点で、大学という機関はすごくお得だったのだなぁと今更思っている。
私の退学は必然であり、間違ったことをしたとは思っていないが、当時の自分が少なからず羨ましい。

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