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私なりに生活保護について

昨日は結局午前四時くらいまでゲームをしてしまっていた。

気絶するように眠って起きたのが八時頃、そのまま寝不足だと思って朝ごはんと薬だけ済ませて二度寝して正午前、といった調子だ。

そしてそこからまたずっとゲームをしてこの時間に至る。
午後六時にはご飯の用意をしなければなどと思っていたが、結局夕飯のパスタを茹で始めたのはついさっき、午後八時過ぎになってしまった。
恐らくこの後も昨日と似たようなプレイ時間でゲームをして、ぶっ倒れるようにして眠りにつくだろう。

身体を使い潰すような生き方をしていると我ながら思うが、これが自分の好きなことで出来ているだけまだましだ。
世の少なくない人々は自分のやりたくないことで身体と時間を酷使しながら生活している。私はそういった生活に極端な逃避反応を起こして今の境遇になったわけで、そうならずに嫌なことをやり続けている人々は凄いなと思っている。我々生活保護下の人間はそうした過剰なストレスに晒されている人々を含む労働者たちの税金で行かされているわけだが、「少しは体を労わったほうがいいですよ、休んだ方がいいですよ」と言いたくなってくる。例え全ての人々がその選択を取って制度自体が破綻しても、私は文句ひとつ言えない。
というか、そうなっていないのが不思議なくらいである。なぜ自分がやりたくないことを我慢できるのかが全く分からない。だからニートをやっている。

「私たちが寝食を削って生み出した財産が、お前みたいな人間の生活費になっているのはおかしい!」という主張に対して、私個人としては返す言葉もない。
全くその通りだと思う。薬を飲んでいるからというのもあるだろうが、私の精神状態は現在比較的良好(主観的に見て)だし、私と交流した人々は「なんでこいつ働けないんだ?」という印象を抱くことが多いだろうと思う。
思いっきり自分に甘く評価するが、ハキハキとよく通る声で喋るし、相手の目を見て話すことに支障はないし、ユーモアには自信があるし、空気を読むのも上手いほうだ。

ただ、世の中には生活保護を受けなければ生きることがままならない人々というのは間違いなくいる。
先天的ないし後天的に障害を抱えていたり、貧困から抜け出すことがどうしてもできなかったり、他人とのコミュニケーションが極めて苦手だったり、どうしようもない希死念慮に囚われていたりする人々にとっては、生活保護はなくてはならない制度だ。
そして、実際のところ私も「生活保護を受けなければ生きることがままならない人々」の範疇にある、はずである。
責任感や罪悪感を感じず、危機管理能力がないために死の瀬戸際まで間近の死に気づかず、動機や必要性が生じても何もできない程度に気力がない。
先ほど私は自分のことを自画自賛したが、それは私の一側面でしかなく、他の面から見ればこの通り、全く自身を生かす能力に欠けているのである。

これに対して例えば「自己責任」という言葉を使って反論する人々もいるだろうが、それはその人々が偶然生活能力を持つように生まれ育ったから言えることである。
自己責任だと唱える人々も、例えば生活保護を受けている人々のような境遇に生まれ育てば、胸を張ってそうは言えなくなるはずである。

さらに付け加えるなら、「生活保護を受けていて、かつ生活保護制度を支える側の人々の見える場所にいる人々」はそう多くないはずである。
どういうことかというと、私のようなインターネットでこうした話題について発信できる声のデカい人間というのは保護下の人々の中では少数派であり、「生活保護の実態」とでも言うべき大多数の生活は推し量ることのできない領域にあるということだ。
生活保護を受けてもなお貧困に喘ぎ、不自由に耐えなければならない人間の方が圧倒的に多いだろう。
今私がやっているように、文章を書いてそれを世界中のだれもが見える場所に置くというのは、万人に出来ることではないはずだ。
だから、「生活保護の実態」なるものは常に「語られるもの」でしかない。
生活保護を悪く思っている人々は生活保護の悪い側面を強調して見て語るだろうし、今私がやったように、生活保護を支持する人間はそれを否定する材料を強調して語る。ニュース番組やインフルエンサーだけがそうするのではない。人間は見ることのできたものについてしか語ることができない。

「実態」を成している人々の多くは沈黙するしかなく、発信することができない。
それ故に、彼らが「見られる」ことはほとんどない。好き好んで沈黙する彼らを見に行く人々は稀であり、そういった人々が存在していることを認識できている人々はさらに稀である。発信しなければ視界に映らず、視界に映らないものを探索するのは非常に困難なことだからだ。
……というのが、私の「語ったもの」である。これも見方の一つでしかない。反論はいくらでも存在し得るだろう(そもそも、「「実態」を成している人々の多くは沈黙するしかなく、発信することができない。」という文言は、沈黙から抜け出し発信した者を「実態」から除外する構造になっている。これは私の論の致命的な欺瞞だ)。

私が今やっているのも、結局は自分の怠慢の長い長い言い訳に過ぎないだろう。
それでも、私はどうやっても怠慢から抜け出せないという点で生活保護を受けているのであるから、論の巧拙はともかくやっていること自体は妥当なわけだ。
罪悪感を感じないと書いたが、時々こうした弁明をしておかなければならない気分になることもある。
何故だろうか。文字数を稼ぎたかったから、ということにしておくのが、私の精神に最も優しい気がする。考えない方が楽だ。

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