ユージーンスタジオ批評 最高、レベチという評判と、嫉妬現象、いわばにせ炎上、ひどい、賛否両論を少し真剣に

つい最近もある会の席でこの話で意見が交わされた。噂で持ちきりである。ユージーンスタジオは『レベチ』極めてレベルが高いさまをいう年齢が伺い知れるワードの一種だ。

まず僕の立場を明らかにしてゆこう。イギリスの某巨大美術館に務める知人は『今まで見た日本人の個展のなかでベスト』と話していた。彼女は専門職として日本人の個展をよく見ている。とある芥川賞作家も公にそう発言していたし僕もそうで数多くあった意見と同じだ。

ちなみに本記事はこれまた某誌のコラムで没となったものである、具体的なリンクをあげつらったのが遠因だが該当部を省きつつ公開とする。編集の方々には容赦いただきたい。勢い公開を始めたが筆者は今幸福と後悔の合間にいる。

美術館主催の展覧会の時点でいうまでもないのだが卓越した芸術史的論理。品格。30代そこらで現時点で日本であの規模の個展ができるアーティストはいない。商業向けの個展ではない低予算であろうなか、何万人、何時間と観客が殺到した。

最近多い一過性のアート市場に下支えされていないことも好感のひとつだ。東京都現代美術館のような国際的に評価の高い美術館での個展はオークションよりとてもつもなく重要だ。評価はすでに安泰だろう。これらの現象を一言でいうとなにか?僕らの言葉ではレベチ過ぎた。彼らより若いアーティストにとってはなんと夢のある話ではないか。


それらに対してグーグルサジェストつまり検索バーはいささか不思議である。提案される炎上、ひどいということばは実態とは到底釣り合っておらず実際には素人目線のぼやきが数件。他の異業種の裁判では約1,000件の現象のうち90%がたった3人によって行われたと判明した事例があった。名誉毀損と営業妨害で数百万円規模の賠償となったらしい。
いやはや嫉妬に苦しむヤキモチアンチが張り付いているのだろうかと訝しむ。(下部併記。張り付いているであろう該当者を読者の皆さんに例示しようとしたところ編集部から目ざとくそして当然の如く止められた。情報時代の狂った偏りをと思いつつ僕はしぶしぶ納得したわけだ。ある人から聞いたが、この発端がほぼ一人で、美術の人間であろうことを公表した場合一体どうなるのだろうか。その人は数百万円の支払いが可能なのだろうか。こういったことは因果応報があるであろう。)

さて閑話休題。


ようやくひとつ目の長い本題である。

30分ほど「レベチ」と盛り上がっていた十人ほどの席で終盤にある現代美術作家がひとつの意見を述べた。Fさんは知る人ぞ知るれきとした現代美術のアーティストである。この席が契機で本コラムの作成に至る。

常日頃より述べている通りインターネットでの批評空間は自然発生することでありそれは理想の姿であり素晴らしい。ある程度学術的に蓄積された明らかな質にも関わらず、今回奇妙で不思議な現象が起きていると感じていた。その背景も含めて専ら多数と同じ称賛派の僕らは、その席で不思議な現象の核心を知りたく興味深く会話を続ける。
*後半は許可を取り録音を書き起こした。

出だしはこうだった。
Fさん: 現代美術にもある程度流行があるじゃないですか、僕はそれからすると違う気がした。
我々一同 それは素晴らしいことなのでは。

ここで互いに静かにスイッチが入ったと思う。なお最後まで静かな会話であったことを補記しておく。

Fさん:例えば海外のアーティストと言われていたらとてもよい展覧会となったんじゃない。ツイッターで神がかった展覧会、一生に一度見れるかどうかといわれてたけど、そんな感想になれたかもしれません。

我々 それはステレオタイプな海外輸入の偏見の見方ですよね。

Fさん:そのとおり。間違いなく本当に一握りしかいけない、それは見た瞬間誰もがわかってるでしょ。実際あの年代ではまだ誰もできてなかったでしょ。みな嫌でしょうそれは、僕もなにかいいたい。あげ足とりでもいい。

筆者:なるほどそれは興味深い。
例えば細かく考えるとですね。褪色のも暗闇の像も、今まで史にないんですよね。僕はやられたな新しいな、と思いました。なによりもまず作品各個が評価されるべき良い展覧会だった。論理も非常に公益的に感じましたし鑑賞者の多さ、新しい鑑賞者を増やしたという意でも。

Fさん: 確かに作品としてはそうかもしれない。でも現代美術の古くからのファンは、結局中身ではなくて雰囲気で一風変わった、とかを求めてるところがあるじゃない。


このあたりで面白い要素が見えてくる。僕含めて絵画が専門で今回の展示をペインターのそれとして捉えていたと気づく。
少なくとも僕も含めて近しい面々は雰囲気よりもひとつの作品を重視し根拠をもち体系だてて思考しようとしている。今回もそう見ている。
キュレーションや雰囲気は場所が変われば別物に捉えられる。ほつれた糸を選り分けるようにできるだけそこからヒントを探るが、生前の意図がどこまで汲まれているかが読み取れないことがあるからだ。
同じ絵画は何十箇所と異なる場所に展示される。なので根拠をみながら解読しようと努力する。その分、現代美術の雰囲気や感性を押す展示は抵抗を覚えるときがある。無論同時開催のクボタ展のように学術的に積み重ねたよい展覧会もある。
今回の展示は鑑賞の態度としては現代美術よりも案外我々のようなペインティング研究としての層に適正があった展示だったやもしれない。


同時に今回、とある層、ことキャリア作品ともに至らない作家、人々たちからの声の内容が気にはなっていた。
これは別の方が同じ席で述べたが、言っている内容が目の前の作品とは関係なく、言葉やネーム、前提に噛み付く、動機もまるで頑なに古い体制を守るレジスタンスかなにかかよ、という様子であったと。あるいはあまりにも幼稚すぎるとか。

なにはともあれ展覧会を見ることひとつでもここまで違いがある。動く大多数、中身があまりにも濃いと思い長時間いる我々、反対に中身がないと20分しか見ない層。その対抗が良い語り草、伝説として消化されるという構図。
下記から許可済の録音内容である。

Fさん:まず作品が良いから美術館の個展に呼ばれるという根本を、皆知らないのかもしれないね。国立新美術館や森美術館(筆者注:必ずしもそうだとは限らないことを断っておく)と違って現美は個展をやらせないじゃない。自分から持ちかけても相手にしてくれない。呼ばれるところなの。つまるところ展覧会やる前は単純に作品が面白かったんだと思う。若いキャリアの作家はこういう経験もできてないわけじゃない。寒川さんとは途方も無い差があるわけ。
だからこういう話、知らない人が専門家顔してあーだこーだ言ってるのは素人だと思うよ。どうせ言ってるの、売れない作家さんとか大学院生でしょ?
でもね人の性としてなにか言いたいわけ。若い観客が何千人といたことが嫌だった人も多いとおもう。

…これについては、観客の容姿や様子について感想を述べる方も結構いて、呆れた。美術通のほうがリテラシーが低いという見たくない現実!いずれ具体例を公開して、これらに対して読者の方々がどう思われるか聞きたいところだ。

Fさん:それは幼稚な反応だと思うんだ、でも作品や分野はともかくこういう位置づけになりたかったと思う人は多くて、ある意味で夢奪われて潜在的なはねのけが起きる人はいる。自覚していない反射的なものだよ。誰もが良い美術館でいくつもの展覧会に呼ばれるってわけではないじゃない。小さいところでやって貸しスペースでやって、やっとギャラリーか美術館の若手枠やコンペでグループ展に、という作家からすれば、年齢が近いヤバイやつにごぼう抜きされるのは悪夢だよ。それで簡単に受け入れられたらそれは見上げた人。

美術の転換はそれまでの人にとって絶望。よしとすると自分の作品や美術家人生を揺るがす。そう認められないから毒が出る。いい作品ほど当時はガラクタと言われる。そういうことではないんですか。なににしても近年の日本では類を見ない大きな事件だったのは事実だと思います。

……静かに緊張が漂うFさんとの対話はここで打ち切られ終わる。
考えてみると、今回ユージーンスタジオと頻繁に比較に上がっていたマルセル・デュシャンも実は便器の前にすでに悪名高い存在であった。殆どのアーティストが影に隠れる中、名声が確立されていくのはこういう経緯なのかと実感した次第でもある。

ここで一旦本稿は終わる。ここからはもうひとつの題だ。知人は言った。デュシャンの如く今回のことは想定範疇だったのではないかと言った。
僕としては観客の反応の話以上に、この展示はなにか明示されていないほかの論理があるのではないかと感じた話をした。

たしかに作品の骨太さや緻密さに対して文章は噛み合っていない。観客はことばを重視するのが残念だが、確かに違和感があった。そのような感覚をもとに今回キュレーションから漏れたはっきり明示されていない論理がある推測する。
ここから突飛な論理を展開しようと思う。前述の通り、一つの作品より広い範囲を考えることを常にトレーニングできているわけではないので、批評ではなく考察の範疇かもしれない。
もっともトンデモや謎解きではなく、近い話をしていた人を見たこともあり現在は確信している。

寒川さんはインタビューを参照するに年号を気にしている。1968年や2001年など。今回の展示があったのは、2021年の11月から、2022年の3月まで。3.11は10年を超えている。これは文章に書いてあった。

まだありそうだと年表を調べる。80年前の1941年12月8日。
『真珠湾』。ピンときた。ここから続く一連をテーマにしているのではないか。

今回の中心である無限ミラーの湾に近い『海』。虹色と真っ白の俯瞰図の人々。その絵画を『海を渡って、陸地とする』というニュアンスのことば。あの絵画は海に浮かぶ島々なのだ。
ついで日光と熱線の褪色=影、直後の廃墟。そして海沿いが映る美しい白黒映像。そしてまた海から戻ってくる∞構図。

史実では日本は真珠湾から続く戦争とその後骨抜きにされるのだが、極めつけがアメリカ映画『2001年宇宙の旅』のオマージュ作品『善悪の荒野』。かの部屋のシーンは神とベビーチャイルドの出会いである。新人類であるベビーチャイルドは廃墟の前に立つ我々でありさしずめ我々がこれからを選択するチャイルドである。と胎児的な追悼空間でその時計の針を戻そうとする。新しい海が重油にまみれるかは僕ら次第なのである。

過去の展覧会を読むに寒川氏は骨太な展示を繰り出してきた。
それ故の『レベチ』なのだ。そう考えると本展がロマン主義だの感覚的だという感想は単に読解力不足ではあるまいか。そう思えて仕方がない。


同じ読解をされた方がいましたら編集部、失礼、メールまで。



公開後一部Fさんのコメントを頂いて修正。


8月1日付記:天王洲のマキコレクションで作品が展示されているというので行ってみた。絵画のみでも他を圧倒。



これを機に没となったコラムをここに。
次回はプルーヴェ所論になりそうな風向きだ。
否リヒターか。媒体競合は避けたいが気の向くままに上げていこうと思います。
有料マガジンはここにまとめています。

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