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ラストオーダー

不思議なことに、満席で忙しい時グラスは割れない。
リズムと言うか流れと言うか、そういうものに乗っかって仕事をやっていると、どんなに多くのグラスを扱っても割ることはほぼ無い。

それはお客様も同じで、フロアからグラスの割れる音がするのは決まって人の少ない平日の深夜だ。


それはそうと、永田さんは今日も通常通り盛大に泥酔している。

彼女は二年くらい前から店に顔を出すようになったお客様で、決まって平日の閉店直前に現れる。

そして、必ず「こんばんわ。永田れす。」という程度には酔っ払っていた。

職業は知らない。チーフや店長にも聞いてみたけど「そんなまともな会話が出来る状態だったことがあるか。」だそうだ。

確かに。

ともかく、火曜日の午前二時半、永田さんはいつものようにブルドッグのグラスすれすれまで頭を垂れて、ほとんど眠りかけている。

ブルドッグはウォッカとグレープフルーツジュースで作るカクテルだ。グラスの縁に塩をつければ有名なソルティドッグになる。

永田さんはどんなに酔っていても、この少々強めなカクテルをオーダーした。


永田さんはいつもこざっぱりとした格好をしている。そしてそのシンプルな服装は、彼女によく似合っている。

年は多分僕より少し上だろうか、いつもどちらかと言えばきっちりとした髪型が、お姉さんの様な印象を見せているのかも知れない。


ただ、泥酔している所を除けば、だけど。


「最初は違ったんだけどな。」

オーナーが永田さんの頭の下からグラスをどかして言う。

「友達といつも三人で来てたんだ。ただ、ある時から急にひとりで来るようになって、それから友達は見たことがない。何があったかは聞いてないけどな。」


ふうん。と、永田さんを見る。


グラスをどけたことに気付いてるはずはないんだけど、ちょうどいいタイミングで今は完全にカウンターに突っ伏している。


うちの店には、基本的に泥酔するお客様は居ない。
そりゃ飲み屋だから酔っ払ってる人はいるけど、年齢層が高めだからなのか、みんなそれなりの所で帰っていく。


だから余計に、永田さんは目立った。


閉店三十分前の店内には、結局ひとくちしか飲まないまま寝入ってしまった永田さんとあと一組。


テーブル席の四人組は、メニューを見ているからオーダーがあるかも知れない。

このタイミングで追加注文が入れば、午前三時の閉店時間は過ぎるだろう。

いや、厳密にはうちの店に閉店時間はない。

三時までに入店すれば、よっぽどの事がない限りオーダーストップを僕らが言うことは無かった。


「じゃあとは宜しく。」


いつの間にか着替えたオーナーが、永田さんの肩にブランケットを掛けて帰っていった。
こういうことをさらっとやるから、あの人は油断できないんだ。



ぱりん。



という音は、BGMを絞った深夜の店内によく響いた。
テーブル席の横の床で、ウイスキー用のタンブラーが割れていた。

グラスは消耗品だから割れるのは仕方ない。
一番怖いのは、割れたグラスをお客様が触ってしまうこと。

自分の手が当たって落としたのだろう、手前に座っていた若い女性が、グラスの方に屈み込もうとしている。


「大丈夫です!触らないで!」


僕が声をかけた時、女性はもう指を押さえてきつく目を閉じていた。


「そのまま動かないで下さい!」


僕は振り返ってカウンターの一番奥へ急ぐ。
実はバーには色んなものがある。
爪切りからトゲ抜き、替えのイヤホンや何に使うかは分からないが六法全書までがあった。

当然、救急箱はある。

店長のいる厨房の手前、バックバーの一番下の戸棚を開けそれを取り出す。

閉店前で厨房を片していた店長が、屈んだ僕の前に立っていた。

「店長。お客様が手に怪我を。」


見上げると店長は、僕の後ろを見ながら「いや、お前あれ」と言った。


「すいませーん。一旦傷口洗いたいんで中入りまーす。」


振り返ると永田さんが女性を支えながらカウンターの内側に入ってくるのが見えた。


「ちょっと染みますよ。うん、大丈夫みたいです、破片も無いみたいだし。綺麗なおしぼりで暫く押さえててくださいね。縫うほどじゃないんで安心して。出来るだけ指を上に向けて、そうそうそれでいいですよ。」

それから永田さんは、ぽかんと呆気に取られてる僕に向かって

「あ、救急箱あるなら消毒液とガーゼを。慌てなくていいです、血は止まってるので。」

と柔らかい笑顔で言った。

ブランケットは肩に乗ったままだった。



幸いに傷は浅かったらしく、絆創膏を多目に巻いた女性のグループは全員で恐縮しながら帰っていった。


永田さんはカウンターに戻り、ほとんど氷の溶けたブルドッグを飲んでいる。


午前三時ちょうど。店には空になったグラスを何故か睨んでいる永田さんしかいない。

さっきのとっさの動きは、永田さんの普段の仕事柄なのだろう。

職業上身に沁みついた対応は、どんな状況でも出る程身に付いてるという事か。

そこに、人の命を預かる仕事と永田さん自身との境界の薄さを感じる。

それは眩しいくらいに逞しくて、同時に儚く脆くも思えてしまい、僕は永田さんにすぐには話し掛けられなかった。


区切りと終わりが無い様にも思えた。


「あのー。」


ちょうど音楽が途切れたタイミングで、永田さんがこちらを見た。

とっさに思い付くまま返事を返す。

「すいません。あの、お仕事医療関係なんですか。すっかりお任せしちゃいました。ありがとうございます。」


あれ。という顔で永田さんが言う。

「言ってなかったですか。はい、私看護師れす。」


それからグラスを付き出して


「おかわり、頼めますか。」


と、また眠そうな目を上目使いにして言う。


午前三時十分。


うちの店にも、ラストオーダーと言う区切りはない。


「承知しました。」


さっきの永田さん程ではないけれど、精一杯背を伸ばして僕は答えた。








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