花嵐


「冷蔵庫、なんか傾いてないか。」


浩介がさっきも拭いたカウンターを、また拭きながら言う。

プレオープンぎりぎりに届いた冷蔵ショーケースは、男二人では到底抱え上げられず、取りあえず入り口横に置いた。
段差からはみ出た部分には、段ボールを何重にも噛ませてあるが、どうにも不安だ。
言われて見れば、確かにやや斜めに傾いている。


「仕方ないだろ。そこしか置くとこ無いし。もうすぐ7時だし。」



まだひとりのお客様も迎え入れてないのに、我が店「SLOW BOAT」は賑やかだ。


奥の壁には「祝開店」と書かれた熨斗紙がズラリと貼られ、二列のカウンターのそれぞれの隅には、お祝いの鉢花がぎゅうぎゅうに置かれている。


ちなみに入り口の外には、ドアの両脇に背の高いフラワースタンドも立っている。


知人や友人からはもちろん、その半分くらいは界隈の同業者からだった。


「飲食の世界って、こういうところ良いよな。うちらみたいな美容業界だと、競合しちゃうからここまでストレートに祝えない事もあるって。美容室は多くて月一回、ご飯は日に三度食べるってね。しかしまるで花屋だね、これじゃ。」


浩介は僕の幼馴染みのひとりで、近くで美容室をやっている。
初めてのプレオープンにビビった僕は、一日だけの手伝いを浩介に頼んでいた。


プレオープンとは、正式なオープン日の前に行う、いわば「御披露目会」みたいなもので、もといた店の常連さんや家族、友人を招く。


基本的には無料で、前菜と振る舞い酒で店を紹介しながら、実は店側の「予行練習」の意味合いも強い。


どれだけシュミレーションしても、実際の営業は「なま物」で予想なんかつかない。

動線や距離感をつかみ、仕入れや仕込みの量を体感する大事な機会だ。


そして、異常な緊張感と不安を体感する通過儀礼でもある。


前菜は過剰に仕込んでたし、酒の揃いは今一つながら大体のものはある。


そしてふたつの古びたシェーカーと、一本のバースプーン。

真新しいグラスの隣に並んだそれらは、周囲の風景からちょっとだけ、浮いている。


「ひとつ、ふたつ。持っていけよ。」


前の店を上がる日。
営業終わりに、オーナーがふと言った。


「買ったって3000円もしないけどな。馴染んでるやつがいいだろ。あんまりシェーカーがピカピカだと格好もつかないしな。」



シェーカーと言えば、バーテンダーの命。
とまでは言わないが、毎日必ず使う大切な商売道具なのは間違いない。


「いいんですか。」

とは、聞かなかった。
どうしても言い出せなかった事の答えを、あっさりとオーナーはくれた。


「あ、それ餞別とお祝いのかわりね。」


と、悪戯っ子の様に笑いながら。



もちろんお祝いは、別に今日届いた。

ウイスキーが2ケース。
花を贈らないのが、あの人らしいと思った。




「なあ、ホントにプレオープン7時からって案内状に書いたのか。もう7時半だけど。」


勝手にサーバーから注いだビールを飲みながら、浩介が退屈してますと言う声を出した。


何度も確認したんだ、間違えてる筈はない。


9時頃からオープンする、同じフロアのスナックのママがドアを開けた。

「あら、今日からなの。おめでとう。ところでマスター、生ビールどこの使ってる。キリン?サッポロ?」

マスターと呼ばれたのが、自分の事だと一瞬分からなかった。

サッポロですが、と答えると「わかった。頑張ってね。」とママがドアを閉めた。

10分後、サッポロ生ビールの樽が店に届く。
さすが同業者。今日一番実用的な祝いの品だけど、いったいどうやってお返しをすればいいのだろう。

そのあまりのスマートさに、僕の不安は増していく。

本当に、この世界でひとりきり、やっていけるのだろうか。



7時50分。

ちいさめに鳴らしたBGMの他に、音はしない。

勤めていた頃、お客様のいない時間は、ある種気の休まる時間でもあった。

忙しい週末など、深夜に客足が途切れると、このまま誰も来ないでと、願ったことすらある。

カウンターに誰も座っていない時間を、こんなに焦った事は今まで一度もなかった。




「なあ、これどうやって使うんだ。虫歯菌が持ってそうなやつ。」


バースプーン。

中央が螺旋状にねじれた、バー特有の道具だ。

用途はいろいろだけど、メインはグラスの中の液体をステア(混ぜる)時に使う。

指先で真ん中を挟み、ゆっくり前後するだけでスプーンの部分はくるくると回るように出来てるんだけど、最初はどうしても「回そう」とするから上手く行かない。

と、金髪の店長は言ってた。


「あのな、バーテンダーは見えるとこで仕事するだろ。なら見せることも仕事の一部なんだよ。わかるか。大事なのは、所作だ。所作の美しくないバーテンダーに、オーダーは来ない。仕事の前に仕事があるんだ。ほら、ぐるぐる混ぜるなみっともない。歩くときは腰から上は揺らすな、首から上には絶対に触るな。指先から眉の動かし方まで気を付けろ。」


僕はなるほどと感心しながら、ふと店長の金髪の頭を見た。


「これは、別にいいんだよ。オレ店長だしな。」


一瞬見せた笑顔を消して、店長は

「だから、素人みたいに混ぜるなって。」

と、また怒鳴った。




あまりにも押し込んで並べたものだから、せっかくの祝いの花のいくつかが、花びらを少し散らせてしまっている。


フロアに落ちたそれを見ながら、浩介が、雨降りそうだからだ、とか、台風きてんじゃないの風強いしと、僕に気を遣っている。2月にまさか台風は来ない。
あまりに誰も来ないから「静かだな」と独り言を言ったら、BGMのボリュームを少し上げていた。


そういうことじゃない。


「そういうことじゃないんだよ。」

チーフはいつもの居酒屋で、その晩は珍しく酔っていた。

「わかんないかな。接客って言うのはな、物販はワンタッチ、美容室はペアダンス、オレらバーテンダーは何て言うかホラ。」

何にもない中空に、言葉を探すように目をやると、チーフは半分しか開いてなかった目をかっと開けて言った。


「離れずに暖めて、だ。」


は?と言う顔を僕がしてたんだと思う。


「あれ。知らない?SING LIKE TALKING、佐藤竹善。」


と言って、チーフはまた半分目を閉じた。




8時15分。


今ならわかる。

小さなワンタッチを繰り返しながら、近付きすぎず離れすぎず、側にいる接客。

チーフがいつもそうだったから。
それをずっと横で見てきたんだから。



いつの間にか不安は消えていた。

いや多分消えたんじゃない。

それは一時隠れただけで、この先も店をやる限り何度もやってくるのだろう。

つまるところ、自信は経験からってことか。
ならば、さっき感じた不安も焦りも大事な経験で、それはいつか自信に変わるのだろう。


そう、ずっと皆が教えてくれていたような気がした。



「なあ、知り合い呼ぼうか。4、5人ならすぐ来れるやついるけど。」


8時30分。


大丈夫。うん、大丈夫。


エレベーターが開き、どやどやと見知った顔が出てくるのがドアのガラス窓から見えた。



「まさか、一番乗り?遅くなってごめん、みんな今来てるから。」


いらっしゃいませを、こんなに緊張したのはいつ以来だろう。


あー!
浩介が叫ぶ。


ゆっくりと倒れた冷蔵庫は、中途半端に壁に当たって止まる。
その振動で近くの鉢花が散って、開いたドアから吹き込んだ風に舞った。


花に嵐はいい例えじゃないけれど、なんとも僕らしい幕開けに、思わず笑ってしまった。


バタバタしすぎだろ。


花びらは、はらはらとまだ店の中を舞っている。


不安も焦りも連れていくと決めた、僕の門出へのそれは祝福のようだった。












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