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『クライ・マッチョ』

2022年 クリント・イーストウッド

イーストウッドの新作が出ると聞いた時のことはよく覚えている。トレーラーを見れば、老人イーストウッドと少年が映っていて、どうやら馬も撮るようだ。あの途方もなく美しい『グラン・トリノ』をどこか想起させるようでいて、イーストウッド本人が馬にまたがるのは『許されざる者』以来と来た。これは否が応でも期待してしまう。

レイトショーを予約し、はやる気持ちを抑えつつ、京都二条にあるシネコンへと足を運ぶ。ようやく本作を観ることが叶ったわけだ。しかし、とある考えが鑑賞中の私を襲ってきた。この考えは、私が暫く忘れていただけで、紛れもなくイーストウッド作品に張り付いていたものであり、上映時間とともにその不気味さは忽ち力を増していく。その想念とは、こうであった。

「これは、映画か?」


本作を観て、『運び屋』(2018年) を思い浮かべた人は多いと思う。イーストウッドご本人がヘラヘラしながら車を転がす。どこかほのぼのとした脱力系の小品である。作品紹介にあるような「生きる上で必要な『強さ』」などいった大仰なテーマなどとりあえずは無視して、車の走らせ方や馬の撮り方にいちいち感嘆していればよろしい。

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まずは、イーストウッドに通底するモチーフである「身体の聖痕」、これについて考えてみたいと思う。『許されざる者』における顔の傷、『ブラッドワーク』の心臓、例を挙げればキリがないが、今作においてこのイーストウッド的意匠を司るのは、イーストウッド本人ではなく、少年の方である。この監督の映画においては、この「聖痕」がいつ顕示されるかが一種のサスペンスとなるわけだが、今回に限っては不意打ちの驚きだった。追手にとらわれそうになった少年が体の傷を顕示するというこの運動ーキリスト的身振りによって彼は急死に一生を得るわけである。

「聖痕」を持つのが少年ならば、主人公はこの少年であると言い切ってみることにする。ついにイーストウッドは自らのモチーフを若者に「継承」したのかなどと感嘆することもできるが、ここで我々はその宗教性に気付く。なるほど、本作では途中で二人が教会で寝泊まりするシーンもあった。聖母マリアの下で二人はそれぞれの告白を行い、「聖痕」を持つ少年のみが教会で眠るべきでないと言う。夜が明け、二人に朝食を持ってきたのは食堂の女主人である。

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この女主人とイーストウッドたちが仲を深めるシーンは非常に面白かった。例えば、食堂でイーストウッドと女主人の関係がふと親密になりかけた時、保安官補が入ってくる。メロドラマがサスペンスへとすり替えられたわけだ。ましてや、二人がこの女主人と別れる際も、非常に事務的な手つきで撮られている。ほかにも、保安官補の正体、車を盗難する時、さらにはあんなに必死だった追手ですら全てご都合主義で解決してしまう。このあたりは非常にイーストウッドらしいというか、必要なものを削り落としたミニマムな映画になっている。

必要なものから削り落としたがゆえに、観客はなんとも奇妙な感覚を覚える。これが冒頭の「これは映画か?」になるわけだ。これを映画とよんでいいものか、わからない。なぜならば、こんな撮り方をしている映画作家など他にいない、というよりはいるわけがないからだ。イーストウッドが悪びれることもなく、こんな撮り方を続けることが出来るのは、おそらく俳優の「貌」にこだわることができるからだろう。

イーストウッド映画の根底を流れる前衛性に動揺するのは、いつものことである。しかし、今作に限って言えば、「馬」に言及せずに終わるのは片手落ちだろう。『許されざる者』でジョン・ウェインを否定してまでハリウッド西部劇を終わらせたというのに、ついにその封印が解けたというのだろうか。それとも、もう自分は亡霊だとでも言わんばかりに「好きにやらせてもらう」というマニフェストなのか。いずれにせよ今作でイーストウッド本人が馬に乗ったショットは鮮明に覚えている。

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