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生きるのに「お墨付き」はいらない

最近とあるスーパーで買い物
するようになって

そこのプライベートブランド(PB)が
「みなさんのお墨付き」なのですが

誰のなんのお墨付き?
そもそもお墨付きって何?

そんな疑問が浮かびました。

辞書を引いてみたら
「「お墨付き」とは、
権力や権威のある人の与える
許可や保証のこと
をいいます。」
という意味らしいです。

じゃあ「全員が権威」って、意味を
成さないことになるのでは?

とはいえ私はここで、特定のPBを
云々したいわけではありません。

ただ、「お墨付き」本来の意味と
その使われ方がどうなの?と
問いたいのです。

権力や権威のある人が与える
許認可が必要なものは
世の中にたくさんあるでしょう。

それは、ある物事が一定の品質を
保ち、安全で、(少なくとも理論上は)
誰かが不利益被らないための制度
かもしれない。

身近な例では、
運転免許や調理師免許など

さらには家元制度なんかもそうですね。

一方で、それがはるかに
拡大解釈されて、
人の存在そのものが許認可の
対象となってしまうことがあります。

実際、私は成長期に親の宗教的
信条に端を発して、「親=神の許認可が
ないと生死に関わる」と長らく
信じこんでしまう状況に置かれていました。

私が生きる許認可を受けるには
親や神(の名をかたるもの)が
求められる条件をクリアしなくてはならず、
その条件を満たすことができていない、
いくらあがいてもできない自分が
「罪深い」と思っていました。

(そういう部分を本来「救済」するはずの
キリスト教が、いみじくも「罪悪感」を
植えるだけで救いの余地をなくして
しまったというのは皮肉です。)

それは、生きていること自体が
認められないという考え方になって
しまう。

でも、およそ半世紀生きてきて
はっきりと理解したのは、
「生まれながらに罪深いというのは幻想」
だということです。

生まれてきたこと、生きていることは
それ自体に良し悪しというのは
なく、許可も不許可もないのです。

ただ、人間が生きている環境の作りとして、
天と地や神と人、良し悪しや許可不許可
という相反する設定があって

それにより、設定の狭間で
「表現や体験」がはじめて
可能になるわけです。

すべてがひとつだとしたら、
違いが存在しない、つまり
多様な体験ができないことに
なってしまいますから。

『そういう設定の中で、
あなたはどういう
表現や体験をしたいのか』

生きていることに対して
問いがあるとしたら
もしかしたらそれだけでは
ないでしょうか。

生きていること自体には
本質的に罪も許認可もないのです。

ただ、この概念によって人を
操り、利益を得ている層は
歴史的に長らく存在している
のも事実。

そういう層は
かくなる体験をすることを
選んでいるわけであって

設定上、多少の影響は
受けるにせよ、
いつまでもそこに
振り回される必要は
ないのです。

たとえ相手が親であろうと
神であろうと関係がない。

生きていることに
許認可(オーソリゼーション)は
まったく不要なのです。

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