ハラスメントのない社会への提言
”。”ハラスメント(マルハラ)という言葉に、多くの議論が巻き起こっている。これを言われたら、何もかもハラスメントになるなどという言葉まで飛び交っている。
ハラスメント論については、形式たった体系が存在しないこと、または、体系が確立したと述べる有識者が立ち現れていないことに今日的課題を持っていると思う。このことについては、私のところでも未解決の問題であり、そのうち体系だって一つの仮説を立てられるように努力をしたいと思う。また、全体にわたっての体型を論理的に出してもらう有識者が現れることを期待したい。
今回は、ハラスメントと感じない関係性が存在しているところに、着目をして根本的な仮説を述べようと思う。
一つ、ハラスメントとは、二人(または以上)の人が存在し、相互のやり取りがあって初めて起こることです。つまり、一人では起こらない。必ず自己だけでなく相手がいるのが、前提です。それで、人と人で相互の関係でハラスメントだと見えるが、そうは捉えないという関係性があると、観念的な感性的な捉え方であるが、見えている。
それは、二人の会話から始まる。
先輩「何まだ、同僚2いるの? もう帰ったら」
後輩「まだ帰れないんだよ。」
先輩「仕事ができないってことでクビになっちゃうね笑」
後輩「何を言ってんだよ。クソジジィ」
先輩、後輩「笑い」
このたった数秒の会話には、ハラスメントと取れる部分があるのかといえば、言葉のみの切り取りであればと言える。しかし、ここには、文字で取れないリスペクトとなりえるような、なんでも言い合える関係が存在している。汚い言葉には汚い言葉で返すということで、ある意味帳消しになっているのかも知れないが、一番はなんでも言い合える環境だということではないだろうか。
ハラスメントの言葉が広がった裏で、コミュニケーション不足が問題となっている。
このことを踏まえて、私たちは話をしなくてはいけないのではと感じている。なんでも言い合えるような社会にするためにも、X(旧ツイッター)から飛び出し、間違っていてもいいから話をする。自分の考えを話し、聞く。そして、汚い言葉を言われたら言い返す。Xでできているのだから、一般国民、青年、学生は自由に話をすることが保障されているからこそ、話をしたらどうだろうか。この日本に、アゴラとなる学園が必要なのではと思う。
言葉を選ぶ時代だからこそ、言葉を選ばずに、小学生並みに言いたいことを言いましょう。
駅で出会った小学生が、バカ。アホの応酬をしていたのでこのぐらいのことからスタートを
*写真はAIイラストで生成したもの 会話とは無関係。
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