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大人扱いする。

行元です。2013年設立当初に比べAL(アクティブラーニング)やPBL(課題解決型授業)は一般化した。

学生企業連携はどこを見渡してもある。

じゃあもう私たちのコーディネートの役割はもう必要ないのだろうか?という問いをあえて投げかけつつ、改めて、GLOCAL CENTER独自の特徴/強みを考えて言葉にしてみた。

・リアリティを見せる
・学生を、大人扱いする
 *
かかわる大人自身が、自己開示しいち人間とし本気で対等に向き合う

つまり大人側の心構えや姿勢、このあたりになると思う。

時代に呼応したテーマ設定、座組、国内外の地域性、多様な参加者、インターン生やプロボノとの運営体制、実装までのデザインなど工夫や年数を経て自信があるところ、おもしろい点は他にもある。が、特筆すべきは上記かなと思う。

リアリティをみせる。

 昨日、某企業とのインターン生を含めた今後の連携に向けた作戦会議があった。「この話題、学生さんにはどうしましょう?」と配慮をいただき、個別連絡をいただいた。この話題というのは、内部調整(内部政治的な)予算調整のリアルだった。

私からは「彼らを信じていただき、可能な範囲でそのままをお話いただけませんか?」とお伝えした。

おそらくこうしたことはPBL設計側の仕事に分類されるので大人が巻き取っていることが多かったりもする。部長決済の上限があること、組織ではこういう進め方をする、の"こういう"に、彼らが学びの中で触れることが、本当の学びだと思う。こうしたリアリティに触れられれば、イメージで社会をみたりミスマッチは限りなくなくなるだろう。本当に探究したい担当者の問いと、社内的に通りやすいテーマ設定との調整部分から学生にかかわってもらっている。ここが一番の学びかもしれない。地域連携でのフィールドワークの現場や会社訪問の現場の能動的なリアリティはもちろん大切だが、こうした大人が直面する、日々の小さくて地味で見えにくい重要なリアルをどこまで学生に見せられるか?が大切だと感じている。そしてなにより、人間だから疲れたりしんどくなったりもする、大人もかっこいい時だけじゃない、わからないこともある。そうした姿も見せていく、休んでもいい。

信じる。大人がまず信じ、心を開き、情報や見ているものをそろえる前提づくりをしないとリアリティを持った本気の連携はできない。対等に接する。補助線をひきすぎない、大人のリアル、その姿勢を学生もみている

学生を大人扱いする。

手加減なく話す、大人も学生も相手によって言葉選びをしてしまうことがある。が、いつもの自分のまま、自分の100%の問いや考えをぶつけあう空間をつくる。ここが「学生用の言葉・内容」に分かれているとしたら、ある意味すごくポテンシャルだと思う。ある高校で、経営者と高校1年生の本気のセッションを目の当たりにした。日々先生が子ども扱いせずに接しておられるからこそ、大人扱いしないのSessionが成立する。議論に耐えうる日々の自己研鑽と探究心から学生がまっすぐ問う。うろたえそうになる鋭い問いも含めて、大人はまっすぐに、役割を超えて一人の人間として自分のことばで答える。世界や社会の今を、抽象と具体、マクロとミクロの視点の両方を行きつ戻りつ、具体事例で学生に届け、彼らの学びや概念に繋がりと命を宿していくような刺激を受けるコラボレーションが生まれる。どんな質問がくるかわからない中で準備無しで話せます。と、場を人をを信じて身を任せてくれる大人がまず必要で、思いっきり自己開示しないと、こうしたことは到底できない。

これは私も本当に勉強したい。決してきれいなものだけではない、簡単ではな社会を、学生に希望だけを持ってもらうのは無責任すぎる。けれど、たった一人のかっこいい大人がいるだけで希望は持てるし、実際に世界は変えられるんだ、ということを手加減なしで見せていきたい。数はあっても、そうした機会や器が今まだ圧倒的に少ないように感じてならない。

言葉にしようと思ったきっかけ

 昨日の朝、台湾タイのビジネスパートナーであり私のソウルメイトCoreySakuとのMTGを終えてふと考えた。英語で話されているからむずかしいのではなく、正直二人の話は容赦ない・手加減がない、スーパーフラットなのだ。1か月に1度再会とお互いがヘルシーでいることを喜びあい、今の問いや現状、社会についての考察洞察を語る。特にビジネスに関して2人は証券会社や外資系金融機関にいたのだ、数字の話が飛び交う、タイ台湾政府の動向についてのupdateにも話が及ぶ。メモをするので必死。ついていけない。後から、意味を聞く。そのわからなさ、ついていけなさに自分のレベルと今を突きつけられる。2人は、真に対等なのだ。いやみもない。そして私はこの2人に学び続けたいと思う。

人間としての尊厳

私が日本にいて感じるのは特に会合的な場所に行くと、表面的な話題に変えられたり「対等な大人扱いされてなさ」を感じる時が正直ある。悪気なく、相手に合わせて配慮してる/されていることが、相手を傷つけていることもあるんだ。私は、ここに、もやもやを抱えていたんだ、と気づいた。それと同時に、何よりまず私が「この人に話そう」と話してもらえる人にもなる努力が必要だ。

話を戻すと、日本には学生連携はすでにたくさんある。学生が最高未来責任者になったり学生企業連携の数は溢れている。
じゃあコーディネートをやらないのか?必要ないのか。

めっちゃ必要やなと思った。私たちは大人側に問う、本当の意味での連携をコーディネートしていきたい。学生には力があり、信じる大人の存在と、大きな裁量と、器さえあればあとは爆発的に力を発揮する。大人が補助線を引いたり、誘導しない限り、学生たちは大人の想像をあっさり超えていける。

what ifの話をすると、もしいなければ学生の力が発揮されないまま社会に出ていく。社会に出ても若手の声が届かず、若者の力が発揮されないままの構想やアイデアが生まれていく。

大人のリアルと大人の本気を、学生に学びの段階できうる限り見せる。
若者の潜在的な力を大人が社会に引き出していく。選択肢を提示する。

私たちは、無意識に、学生を子ども扱いしていないだろうか?
大人が変わらなければいけないのではないか?

それを自問自答し、意識できたときに、日常での世代を超えたコラボレーションに命が宿ると思う。私は、数ではなくそうしたところを目指していきたい。それが存在理由です。

スタッフ、インターン、プロボノのみんなはどう思いますか?と書いておく。

今募集中の本気プログラムを最後に。学生のみんなを待ってる!
このblogはこれにつなげるために書いたのではないのだけど


自分めも:
子ども扱いしないでほしいという子どもの気持ちと、18-19あたりになるともう大人まだ子どもみたいな使い分けしてたなみたいな記憶と。
ホワイトボードの写真は見たい景色、またことばにします。
おなかすいた。

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