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極限の地のシンプルな生活(2019年8月、インド🇮🇳ラダックにて)

2019年8月、私はインド最北部のラダック地方を旅していた。ラダック地方というのは通称で、正式には「ラダック連邦直轄領」と呼ばれている。インドの広い国土は、実に28州に分かれているが、この連邦直轄領は州に属していない特別な自治体で、ラダックの他にもポンディシェリ(旧仏領)、アンダマン・ニコバル諸島(ベンガル湾南部)など、インド本土とは異なった歴史を辿ってきた土地がその対象となっていることが多い。今回訪れたラダックも「小チベット」とも呼ばれていて、インドに属しながらチベット文化圏の影響を強く受けている地域であり、そこに住む人々はチベット仏教を信仰している。今日はこのラダックにある、パンゴンツォという風光明媚な湖を見るツアーに参加した時のことについて書く。


パンゴンツォツアー(概要)

ツアー期間は2019年8月11日〜15日の計5日間。メンバーはラダックの主都レーという街で知り合ったイタリア人カップルのTommaso、Carolinaの2人と、ラダックから南のヒマーチャル・プラデーシュ州にあるマナリという街で知り合った台湾人のVitaと、ガイドでラダック人のNorbuと私、計5人だ。レーを起点に、北西部にあるパキスタン国境に近いヌブラ渓谷、このツアーのメインの湖パンゴンツォ、中国国境のアクサイチンに程近い所にあるもう一つの湖ツォモリリを巡るツアーだ。

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ラダックという地域について特筆すべきはその標高で、主都のレーですら標高約3,650mの高所に位置している。酸素が薄く、人が住むにはとても過酷な環境であるということについて、あらかじめ触れておく。

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レーから最初の目的地であるヌブラ渓谷へ行く道は、カルドゥン・ラと呼ばれる標高5,359mの峠を越える。この峠は「世界で一番標高の高い位置にある車道」としても有名で、酸素は薄く、長く滞在するには厳しい場所だ。北半球の8月の気候としては信じられないが、峠では雪が降り、路肩には雪が厚く積もっている。


ヌブラ渓谷

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ヌブラ渓谷は長らく外国人に開放されていなかった為、観光地としての情報も少ない。だが、この周辺には見事なチベット仏教の修道院が幾つもあり、観光客はこの辺境へと足を運ぶ。

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レーから北西方向に伸びるヌブラ渓谷への道は、荒涼としていてどこか殺風景だ。レーを出ると街という街はなく、集落レベルの数十人が暮らす村が、5km、10kmごとに現れるばかりだ。集落の周りは幹線道路以外に目立った人工物はなく、渓谷の左右には雄大な山が聳えている。ヌブラ渓谷の自然は筆舌しがたい程美しいが、人が住むにはあまりにも過酷な環境に思えた。電気は殆ど通っておらず、インターネットは以ての外だった。自然以外に何もない。こういった環境の中に身を置くと、人は自然に生かされているのだと実感する。ディスキットという村の修道院から、山の麓を見下ろすと、僅かにある家々は偉大な自然の中に小さくへばり付く、どこか脆弱な存在に見えた。


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フンダルという村には幾つもの砂丘があり、ラクダに乗るアクティビティが観光客に人気だった。


フンダルの宿は、建屋こそ立派だったが、その実は電気もガスも通っていない質素なものだった。標高3,000mを越える山地のラダックは、朝晩の冷え込みが著しい為、温かいシャワーを浴び身体を温めてから寝たかったが、それは叶わなかった。現地人は「水なら出るから浴びれば良い」と言ったが、氷点下近くまで気温が下がるこの地で、それは出来なかった。

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寒く長い夜を過ごし、翌朝、太陽の光に身体を温められ、とてもホッとした気分だった。


天空の湖パンゴンツォ

2日目は、このツアーのメインのパンゴンツォと言う湖へ向かった。この辺境にある湖を世界的に有名にしたのは、ボリウッド映画の"3 idiots"で、主人公が映画のラストシーンで訪れて、その存在が世に知れ渡った。インド国外での知名度は元より、国内でも絶大な人気があるようで、遥々南インドからラダックの短い夏のシーズンを目掛けてやってくるインド人旅行者を数多く見かけた。

ヌブラ渓谷からパンゴンツォまでの道には、ヤクと呼ばれる高原地帯に生息するウシ科の生き物が多数暮らしていた。

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パンゴンツォはとても透明度の高い、澄んだ色をした湖だった。高地だからか雲が近くにあるように感じ、雲、山、湖が一つの画角に入るのが、とても不思議に感じられた。

このパンゴンツォがあるメラクという集落も悲壮感溢れる寂しい村だった。家はレンガを積んだだけの殺風景なものが多く、村には殆ど人がおらず、牛の喉元にぶら下がったカウベルが、時折カランコロンと哀しく鳴るだけのとても静かな場所だった。夏の間は観光客が来るだろうが、長い冬の季節、現地の人々はどのように暮らしているか、とても不思議だった。

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この日は27歳の誕生日だった為、奮発してビールを買った。高所でアルコールなんて飲むもんじゃない。すぐに酔いが回った。


極限の地、ツォモリリ

3日目から4日目にかけて、ツォモリリと言う湖のほとりに滞在した。ツォモリリまでの道中は、人が全く住んでいない場所を地図上の空白地帯を通った。360°全て視界には山しかなく、距離感が全く掴めない道を進み、どこか世界の果てにでも向かっているのではないかと、おかしな感覚になった。時折現れる馬やヤクが、この辺りに存在する唯一の生き物の姿だった。

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途中立ち寄った食堂では、袈裟を着た集団に出会った。彼らは太鼓のような楽器と動物の角のような長い笛を吹きながら行進して我々の元にやってきて、この食堂で一休みをしてすぐに去って行った。

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ここがツォモリリの起点の村だよ、とガイドのNorbuに言われて連れて来られたのはカルゾックと言う小さな集落だった。ここは100-200人ぐらいの人が住んでいそうだが、どこも豊かとは言えない佇まいの家ばかりだった。この5日間のツアーでは初めて、ホームステイという形式で民家に泊まらせて頂いたが、電気は共同のリビングの様な広間にしかなく、日が暮れてからは何もできなかった。

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ラダックの奥地となると肉は貴重でなかなか手に入らない。この地方では、野菜や米、芋などしか口にすることはない様だ。村の周りは作物が育つとは到底思えない禿山しかなかったので、野菜ですらここでは貴重なのだろう。食べられるものがあるだけでも、有り難みを感じた。

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チャイかと思って口にしたバター茶は、日本人の自分からしたらとてもしょっぱかった。だが、この地方では貴重な塩分を摂取できる高価な飲み物だ、とレーから来たというラダック人が教えてくれた。このラダック人の一行は、40代ぐらいの中年の男1人と、20代前後の若い女性5人という不思議な組み合わせだった。なぜこんな辺境に来たのか聞くと「我々の先祖はこの過酷な環境で生活してきて、この厳しい環境での生活を、若い世代が忘れない様にする為に、ここにやってきた」と引率係の様な、中年の男性は答えてくれた。

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この家は隙間風が吹き、何枚もの分厚い毛布をかけて寝ても、身体の末端が冷えてしまい凍える様な環境だった。ホットシャワーが出るよと言われていたが、ガスも火もつかないので、バケツに汲んだ水をタオルに湿らせて、身体を拭くことしかできなかった。水も貴重で、与えられたバケツ一杯の水で、トイレ、シャワー、歯磨き、洗顔など全てを賄わなければならなかった。彼らラダック人一行は、この過酷な環境に1ヶ月住むらしい。気の遠くなる様な話だ。

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4日目はこのカルゾック村の郊外に足を運んだが、そこにはノマドを自称する遊牧民が暮らしている地域があった。彼らが家と呼ぶ場所には、風が吹いたら飛ばされてしまいそうなテントが張られていた。彼らはこのテントと幾許ばかりの家財とともに、厳しい冬を移動しながら過ごすらしい。厳しい環境で生きてきた人間の、逞しさは計り知れなかった。

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彼らがこの土地を離れて豊かな南方の地に移り住まないのは、宗教の影響があるのかもしれない。この5日間で回ったラダック地方の各地には、5色のタルチョの旗が結ばれ、聖域として崇められていた。カルゾック村は娯楽もない小さな村だったが、村の中心には立派な修道院があり、昼夜を問わず摩尼車を回した老若男女が出たり入ったりしていた。宗教による結束は、自分の様な人間には到底理解できないぐらい、強固なものだった。

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帰還、レーへ帰る

4日半のツアーを終え、レーの街に戻った。ツォモリリからレーに戻る際にも、タグラン・ラと呼ばれる標高5,000m超えの峠を越えた。

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レーに戻る前に寄ったティクセーという村では、見事な修道院と、中に納められているカラフル奇抜な仏像を見学した。同じラダック地方でも、前日までいたツォモリリの地方の環境とは、雲泥の差だった。ティクセーより先は、文明によって発展した別世界だった。

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このツアーに参加したのは、パンゴンツォを見る為だった。だが、思いの外印象に残ったのはツォモリリのあるカルゾック村での滞在だった。カルゾック村の環境は、身体に堪えた。文明に囲まれた所で過ごしてきた、自分の弱さが露呈した旅だった。タグラン・ラの峠を越えて、インフラの整った村々に降りてきた時、心の底からホッとした。カルゾック村は極限の地で、自分にとっては異世界だった。カルゾック村で出会った人々は、鋭い目をしていた。彼らの顔には、厳しい環境で生きてきた証とも言える、味のある皺が幾重にもあった。彼らの中には、カルゾック村を出ることなく、一生を終える人もいるのかもしれない。彼らは同じ21世紀という時代を生きていながら、便利な文明とは交わらず、伝統的な暮らしを後世に繋ぐ様に生きていた。彼らの営みは、自分には到底真似できないが、とても美しかった。人間とは本来、彼らの様に自然に寄り添って、自然と共存して、過酷ささえも受け入れて、生きるべきなのかもしれない。そんな人生のヒントを彼らから学べた旅だった。




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