第二回 お嬢さま・お坊ちゃまになる?
by 小山 和智
前回、インドネシアでは我が家に使用人がいたと記しましたが、海外に出ると国によっては日本では想像もできないほどの“ぜいたく”な暮らしを経験することになります。ジャカルタで私たちが住んでいた家は敷地が200坪もありました。周辺は古くからある住宅街で各国の駐在員家族も結構多く、前回お話ししたアルジェリア人もそうですが白人の家庭も何軒かありました。
一方、坂の下には庶民の集落(Kampung)があって、農村部から職を求めて移ってきた人々が肩を寄せ合って暮らしていました。ヤギやニワトリを飼育している家、家具・雑貨などを作る工房、屋台のような食材店・飲食店、床屋などもあります。
子どもの目にも貧富の差が明らかに映るそうした環境で、長女(M子)は満2歳から3年間育ちました。長女よりも1歳3か月幼い長男(T雄)は、ほとんど記憶に残っていないようです。
日本に帰国すれば二人ともインドネシアのことはすぐに忘れてしまうと思っていたので、「日本語と日本の文化や習慣だけは、きちんと教えておこう。そうしておけば大丈夫だ」と、私たち夫婦は甘く考えていました。(注1)
注1)乳幼児で海外に帯同され、満5歳未満で帰国した場合、どちらかというと「海外で育って来日した子」に近い状況と捉えるべき事例が多いようです。
“お嬢さま”の気分で暮らす
うちの子どもたちはジャカルタ在住の日本人の間でマスコットのようにかわいがられていたのですが、そのせいかM子は“こましゃくれた子”になりました。家の近所を散歩していても、さまざまな国の人から優しく声をかけられ、まるで世界中の人が自分を慈しんでくれていると思っていたようです。笑顔で「こんにちは。ごきげんいかが?」とインドネシア語で返せば、皆さんは大喜び・・・・・・すっかり“お嬢さま”の気分で3年間を過ごしました。
M子が4歳になるころには、インドネシア語もかなり話せるようになり、日本からの客人の手を引いて近所を(坂の下の集落まで)“通訳ガイド”することもできるようになりました。「日本から来られたお客さまです。いまはお散歩です」と紹介するらしく、客人の報告では、ご近所も笑顔で接してくれたそうです(いろいろ怪しいものを食べさせられたりも・・・・・・)。
ジャワやバリの舞踊ショーを見せるレストランでは、舞台の下で見よう見まねで踊っているうちに上達して、近所のパーティーでも踊るよう所望されるほどになります。
ジャカルタの日本人社会は大きいとはいえ、東京の町内会一つ分くらいの狭い社会です。安全を確保するためには日本人同士が固まって暮らす必要もあり、家族ぐるみでおつき合いする機会も多いのですけど、その分、お互いに高いストレスがかかることもあります(注2)。そこで私たちはできるだけいろんな人とつき合い広い視野を養おうと、自宅の近所に住む外国人とも交流するようにしました。「隣組(RT)」という昔の日本軍が残した制度があって、“相互扶助の活動”などで地域の世話役とも親しくしていました。
自宅と背中合わせにあるインドネシア高官のお宅とは、メイド同士の仲がよく、子どもたちもよく遊びに連れていかれます。次第に母親同士も親しくなり、家内のインドネシア語も上達しました。
また日本人学校の地元スタッフからは、親族の結婚式や割礼式などに家族ぐるみで招待されます。職場の上司が参加することは、そのスタッフが誠実に勤務している証しとなるので大歓迎されます・・・・・・うちの子たちも、主賓として扱われてご満悦でした。
注2)稲村 博著『日本人の海外不適応』(NHKブックス)には、そのメカニズムが解説されています(P.137以降)。稲村先生は「日本人同士固まっていることは安全の面で大事ですが、どこか一部を日本人以外の人のためにも開けておくことが大事ですよ」とよく話されていました。
肌身や舌など五感で学ぶ
M子・T雄が何かほしがるとき、あるいは何かしたがるとき、私たちもメイドたちもかならず「なぜ?」「どうして?」と聞くようにしていたのですが、いつしか子どもたちも、誰彼なく「ねえ、何してるの?」「どうしたいの?」「なぜ~なの?」などと話しかけるようになりました。
一般に3歳前後の子どもは好奇心のかたまりですのであたりまえといえばあたりまえですが、日本なら「うるさい!」とか「あっちに行け!」とか言われるような場面でも、ジャカルタではすべて許されていたのは幸いです。
何でも覗いてみる、触ってみる、舐めてみる、あるいはまねしてみる毎日・・・・・・何度か緑唐辛子(Green Chili)などをかじって火がついたように泣いたこと以外は、遊び放題の日々でした(いつも誰かが見守り、安全は確保されています)。
動物園でも、象や虎の赤ちゃんを手が触れる距離で見せてもらったり、キリンに餌をやったりなどの超特別扱い。大きな虎が、目の前を地響きを立てて走ったときも、目を丸くして喜んでいました。
とくにT雄は、動物から自転車や職人の草刈り機まで、動くものは何にでも触りたがり、オートバイの修理工場を見に行ったときはエンジンなどの分解や組み立てに見入っていました。もちろん「それは何?」「どうして動くの?」とインドネシア語で質問をし続けますが、職人さんたちは丁寧に説明してくれます。
飛行機に乗っても、かならず乗務員に話しかけるので特別扱い・・・・・・飛行機の模型などをもらうだけでなく、操縦室まで連れていってもらったことも何度かあります。
我が家では、衛生上の配慮としてオモチャ遊びは1室だけに限り、オモチャの持ち出しも禁じていました。屋内はすべて硬くて冷たい大理石の床ですので、この部屋にはおなかを冷やしたり転んでもけがしたりしないように厚めの絨毯を敷いていました。メイドたちがお祈りや休憩をする間は、子どもたちをここで遊ばせておけば安心です。
M子・T雄は声が大きくにぎやかな二人でしたが、静かにしていると我が家では“警戒警報”・・・・・・たいていは内緒で“実験”をしているのです。
レゴや積み木を使って巨大なものを作っては投げたり倒したりして遊ぶのはよいとしても、あるときは小麦粉が一面にまかれていたり(雪?)、あるときは貴重な醤油がまき散らされていたり(料理?)・・・・・・。
まるで何かの儀式でもするように、粛々と行われていました。とても楽しそうに精神集中しているから、私は叱る気にならないのですが、家内は・・・・・・。あとで掃除と絨毯の洗濯をさせられるメイドたちはかわいそうでした。
生命の大切さを考え悩む
あるとき、M子とT雄が深刻な顔をして日本語でコソコソ話していました。耳を澄まして聞いてみると、どうやら坂の下の集落で飼われているヤギやニワトリを呼ぶことばが自分たちの好きな料理の名前と同じであることに気がついて、ショックを受けているようです。
M子は、ヤギもニワトリもいずれ食肉として売られていくことを、集落の大人たちの会話から聞き取ってきたのです。T雄も最初は「動いてないから、別のものじゃない?」と思っていたようですが、さっき「前の家で飼っている白いガチョウも、韓国人の家の赤犬も、我が家にいる猿のジェフリー(秘書のペット)ですら、いずれ食べられるかもしれない」とメイドから教えられたらしい・・・・・・。
毎日メイドといっしょに歌っている童謡にも「♪ガチョウをカットして鍋で煮よう」(注3)という歌詞があるのでゾッとしたのでしょうが、M子は気丈にも「私たちは何か食べないと死んじゃうよ。仕方ないんだよ」とT雄を諭しているのです。その日だけは、マトンもチキンも夕食に出ないことを祈りました。
しかしT雄は、いろんな形の(動かない)鉄がネジで組み立てられていってエンジンになることを知っています。自分が食べているのは動物や植物の“部品”なのだと、そのときは理解したかもしれません。以後、二人はこの話題にあまり触れませんでした。
数週間後、秘書がT雄をかわいがるのに嫉妬した猿のジェフリーがT雄に襲いかかる事件が起こりました。幸いすり傷くらいで、破傷風の注射をしただけで済みましたが、「人間を襲った動物は殺処分する」という鉄則で生きている人たちは、当然私がジェフリーを殺すか食肉業者に売り飛ばすだろうと噂しています。子どもの耳にも、それが入るのです。
私にはまったくその気がなかったのですけど、秘書は「殺さないでください」と懇願するし、ジェフリーを兄弟同然に思っていたM子・T雄も「食べられてしまうんでしょう?」と泣きだしそうです。私は「こんなの兄弟げんかみたいなものだよ」と言っておきました(ジェフリーは私たちが帰国したあと1年以上生きて、天寿をまっとうしたそうです)。
なお、次男が生れて間もなく死んだとき、特別にお願いして火葬にしましたが、病院の霊安室にも“焼き場”にも、M子・T雄は連れていきませんでした。骨壺に入れられて帰宅した弟を、二人は複雑な顔で見ていましたけど、いっさい何も言いませんでした。
しかし、「赤ちゃんが早く生まれてほしい」と楽しみにしていたのに、誰もが悲しみや喪失感に打ちのめされていること、そして坂の下の動物たちが消えていくように弟の存在そのものが消えていく怖さも痛いほど感じていたはずです。
子どもたちは自己主張の強さや納得するまで諦めない頑固さと共に、子どもなりに生命の大切さ、相手や周りの人の事情を考えることができる優しさも育んでいました。
注3)『Potong Bebek Angsa』の歌詞。Bebek Angsa は欧州系のガチョウで、食用ながら番犬がわりに飼う家もあります。羽はバドミントンのシャトルコック、つけペン等に使われます。
善悪の基準の違いと子育て
「日本人はお行儀がよくて、悪いことはしない。つねに決まりを守ろうとする」とよくいわれますが、海外で駐在生活をするようになると、いっそうこの傾向は強まります。「日本人の代表として恥ずかしくないように」と強調され、度が過ぎるとストレス源になりますが「優等生的な行動」が求められるのです。私はときにどうして“優等生”でなければいけないのかという疑問を感じながらも、子どもたちには「善いことと悪いこと」のけじめを教えたいと思っていました。
近所の男性が1歳くらいの子を抱いていたので、家内が「まあ、なんてかわいいの!」と言ったら、「いくら出せるか?(買うか?)」と聞いてきたそうです。家内は真っ青になりましたが、「男児は売買される」という話まで聞かされます。いっしょにいたT雄の耳にもその話は聞こえたはずで、傷ついていないかと心配しました。
別の日、スーパーで買い物をしてレジを出たら、M子もT雄もレジの横にあった小さなお菓子を手に持っていました。慌てて戻り、店員にそのお菓子を返して詫びようと思ったら、「それぐらいはいいです」と言って受け取ってくれません。二人はきょとんとしていたので、この店員が二人にくれたのかもしれません。私たちは子どもに善悪を教えたいのに、この店員の対応には本当に困りました。
このほかにも、善悪の基準が私たちとは異なると痛感することはよくあって、幼い子どもたちへの影響が心配でした。
こうした環境で3年過ごす間に、我が子の内面に“お嬢さま・お坊ちゃま”の原体験がしっかり残されているとは想像もしないで、私たちは帰国しました。子どもたちが帰国後の生活を“どん底”と感じただけでなく、次々と苦難に襲われることは、次回以降に。
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