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第三回 このホテルはいつまで?

by 小山 和智

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私たちがジャカルタから帰国した1988年、東京では珍しく4月初旬に大雪が降りました。それが私たちを怒涛どとうのように襲う苦難の前触れでした。成田空港に着陸したJALの機内で、T雄が「あの氷は何?」と聞きました。見ると、滑走路脇に除雪した雪が積み上げられています。「えッ? T雄は雪を知らないんだ!」と夫婦で苦笑いしましたが、私たちにとっては母国の日本でも、幼い子どもたちにとっては“外国”も同然なのです。雪も冷たい空気も、そして周りが日本語だらけの環境ですら“初めての経験”です。

常夏のジャカルタから帰国して震える(1988年)

日本はバブル経済の最盛期で街に華やかな雰囲気があふれているなか、私たちは3年ぶりに自宅マンションに戻りました。落ち着く間もなく、勤務先へのあいさつや外務省での公用旅券返還(Void処理)に出向き、実家から送った布団・衣類などの整理、幼稚園へのあいさつなど目まぐるしいスケジュール・・・・・・子どもたちは、神経が張り詰めている両親を見ているだけでも、さぞ不安だったことでしょう。


幼稚園にも町内会にもなじむ

M子とT雄が通うことになる幼稚園には、ジャカルタから航空書簡Aerogrammeを何度か書いて仮の入園許可をもらっていました。幼稚園に着くと園長先生が出てきて腰を下げ、手を広げられます。M子は戸惑いながらも近づいて「ギュー」・・・・・・ハグしながらM子が「ごきげんよう」と言うと、「待ってましたよ」の優しい声。T雄も続いて「ギュー」をしながら「こんにちは」・・・・・・で入園を許可されました。
しかし国内にいたほかの子どもたちには、前年の11月から入園説明会やお試し登園などがあって、すでに制服・制帽、通園カバンや教材などの道具一式が渡されています。私たちはその一つ一つに、それこそクレヨンも1本ずつ名前を入れなくてはなりません(2人分!)。道具袋や雑巾など家庭で製作するものもあり、二日後の入園式まではご飯もまともに食べられなかった気がします(夫婦共に記憶が飛んでます)。

慌ただしく入園式までをこなし、翌日から、私が出勤前にM子・T雄の手を引いて幼稚園に送って行き、昼ごろに家内が迎えに行くという生活が始まりました。
ジャカルタ時代と同じく二人は通園路の商店や行き交う人たちに「おはようございます!」と元気な声であいさつをします。商店街の皆さんから「おはよう!行ってらっしゃい!」の声が返ってきます。昼ごろにはやはり「こんにちは!」「ただいま帰りましたぁ!」とあいさつしながら帰ってくるそうで、私たちの顔はすっかり知れわたりました。

通園路の東側にある公園は子どもたちにとって格好の遊び場でした。噴水や池、ブランコなどの遊具もあって、近所のお年寄り(といっても60歳代)が優しく見守ってくれます。M子・T雄も毎日、お年寄りとのおしゃべりに興じ、キャッチボールや縄跳び、将棋などの相手をしてもらったり壊れたオモチャを修理してもらったりしていました。
若い夫婦が地元のお年寄りとつき合うのは珍しいかもしれませんが、ジャカルタの“日本人ムラ”の環境に慣れていたことがプラスになったようです。お祭りや子ども会の催し物のときには、いっしょに法被を着て街を練り歩いたりして、子どもの安定根の一つとなっていました。「なんとか日本の生活にも慣れたかなぁ」と安心していたのですが・・・・・・


皇居を訪れて(1988年)

絵本や童謡の学び直し

ある日、T雄が「ねえ、このホテルはいつまでいるの? 早くおうちに帰ろうよ」と言いました。「ここがおうちじゃないか」と言っても、「こんなエレベーターみたいな(狭い)部屋・・・・・・」と納得してくれません。M子も「うちは貧乏になったんでしょう? 私は『小公女プリンセスセーラ』みたいになっちゃうの?」と言います。
一瞬声を失って夫婦で顔を見合わせてしまったのですが、どうやら子どもたちは「貧乏のどん底に落とされた」と感じているようなのです。世間はバブル経済の好景気の真っただなかですから、「幼稚園にはお金持ちの子が通っているけど、我が家は“屋根裏部屋”みたいな所から動かない・・・・・・」みたいな妄想を膨らせていました。

なにかと不安なようなので、ハグしながら話す時間を取るようにしました。「お父さんは死なないし、貧乏じゃないよ。確かに大きなおうちじゃないし、メイドさんもいないけど、これが普通なんだよ」と繰り返し話していくしかないなと思いました。
帰国からちょうど1か月、文字通りの「五月病」の時期ですが、こんな幼い子でも「異文化ショック」があるのかなぁ、と私は考え始めます。「何か子どもたちの心の中に“あやふやなもの”があって、自信が持てなくなっている・・・・・・それは何なのかに注意していようね」と、家内とも話していました。

ある日、子どもたちと散歩に出て、歩きながらいっしょに童謡を歌ってみました。
M子は若干うろ覚えの部分はあるものの、どの歌も覚えています。ところがT雄は、『桃太郎』も『うさぎとかめ』も『げんこつ山のたぬきさん』も、まったく覚えていません。「桃太郎の家来って、何だった?」と聞いても、首をかしげています。M子が横から「犬と猿とキジだよぉ!」と言っても、わからない・・・・・・私がインドネシア語で「Anjing, Monyet・・・・・・」と言いかけても、T雄は「わからない・・・・・・」と泣きそうです。

話を切り上げて帰宅し、T雄といっしょに風呂に入って「幼稚園は楽しいの?」と聞くと、「みんなが日本語だけを話すんだよ」「先生が何か言っても、頭の中には“アー,べー,セー・・・・・・”しか浮かばない」などと悲しそうに話しだしました。
ジャカルタでは、意識的に日本語と日本の文化や習慣に触れさせるようにし、T雄も喜んで習得していました。しかしそれはインドネシア語の基礎の上に載せられていたらしいことが見えてきます。帰国後はインドネシア語に触れる機会が皆無ですから、急速に忘却が進んでいき、その上に載っていた知識構造までが崩落してしまった・・・・・・まるで “頭にポッカリ穴が開いた”ような状態になっているのです。
幸いなことにM子は持ち前の気丈さで、懸命に絵本を読んだり童謡を歌ったりして“学び直し”をしていました。「子どもを賢く育てたいなら、おとぎ話を読んであげなさい・・・・・・」(アインシュタイン博士)という名言も頭をかすめます。私たち夫婦は、M子にも助けてもらって、大急ぎでT雄の“学び直し”をサポートすることにしました。

幼稚園での“お葬式ごっこ”

できるかぎり絵本を読み聞かせたり、童謡を歌ったりするようにしていても(そのときは楽しそうにしていますが)、T雄は語彙力も知識量も後退するばかりです。M子も懸命に話しかけたり手遊びなどを使ったりして、T雄が覚えられるように努力してくれます。
このころのM子は、自分たちは双子だと信じていたそうです。でもT雄が「あまりに“ちゃらんぽらん”なので、気をつけておいてやらないとたいへんなことになると、心配で仕方なかった」と、十年後に述懐しています。

たぶん周りの子たちはT雄のことを「何も知らない/できない子」として見るでしょうから、T雄と遊んでも面白くないはずです。「これは、いたずらの標的にされるぞ」と、私は怖くなりました。案の定、数日後の朝、T雄が「幼稚園に行きたくない」とポロッと言います。私は勤務先に連絡して年休を取り、T雄の話を聞くことにしました。
T雄は生来元気な子で、好奇心旺盛です。誰彼なく「何してるの?」「どうして?」などと質問攻めにするほどです。ところが、返ってくることばがわかりません。だから同じことを何度も聞いてしまうし、理解できないから多少乱暴な面もあったかもしれません。
あるときから周りの子数人が“レンジャー部隊”を組んで、T雄を怪獣に見立てて襲いかかるようになります。そして怪獣(T雄)が抵抗をやめて動かなくなったら、皆で“お葬式”という遊びができ上がり、それが何日間か繰り返されていたのです。

周りの子どもたちは、当時中学校で流行っているとうわさされていた“お葬式ごっこ”をしてみたかっただけでしょう。しかしT雄の心には、弟の葬儀の光景・・・・・・そこにいる人々の悲しみや喪失感が再現され、自分の存在さえ消えていくような怖さも去来したようです。
「皆が“お葬式ごっこ”をしなければ、仲よくできるかな?」と私が言うと、T雄はうなずきます。私はハグしながら「じゃあ、園長先生にお願いして、皆にやめてもらおうね?」と言って、家内とT雄を幼稚園に向かわせました。
園長先生に相談すると、すぐに幼稚園全体で対応してくれ、“お葬式ごっこ”は終わりました。しかしT雄の日本語力が年齢相応に回復するまでは周りの子のイライラも消えないわけで、その後も軽い“襲撃ごっこ”が数年間続きました。近所のお年寄りも気をつけて見守ってくださるようになりました。

“お葬式ごっこ”の事件から少したって、今度はM子がマイコプラズマ肺炎で1週間入院しました。気丈なM子も、カルチャーショックの影響か体はガリガリに痩せていました。T雄はその間、午後はひとりで留守番をさせられていたのですが、文句も言わずにテレビにかじりついていました。
そういえば、M子もT雄も帰宅するとずっとテレビの前に座っていました。コマーシャルまで聞きもらさないようにして、集中して聞き取っています。子ども同士の話題や流行りことばなどを知るために、どうしても必要だったようです。
日本語のシャワーを浴びさせるにはテレビも有効な道具だとわかったので、ジブリ作品を含むアニメをレンタル・ビデオ店で借りてきては家族で楽しむようにしました。アニメ映画の放送を録画したテープも、すり切れるほど視聴しました。


幼稚園のおひな祭り(1989年)

大人びた口の利き方

もう一つの難題が“大人びた口の利き方”でした。ジャカルタに住む幼児の周りにいる日本人の大多数は大人ですから、日本語の話し相手は大人ばかりだったりします。年上の人と話すことに躊躇ちゅうちょがないのはよいのですが、どうしても大人びた話し方や“こましゃくれた”言い方が身につきます。しかし帰国後にはそれが原因で子どもの世界から“浮く”ことにもなるのです。

近所の方からは「先ほどM子さんから、それはそれはご丁寧なごあいさつをいただきました」などと、よく言われました。聞けば、道で出会って「こんにちは。いつもたいへんお世話になっております」みたいなあいさつをしているのです。5歳児ですから、いくら「しっかりしている」と褒めてもらえても、親としては冷や汗ものです。
ジャカルタで身についた“正しい日本語”や大人びたことばは、日本の幼稚園では“変なことば”と受け取られるし、“空気が読めない”とも思われるでしょう。ちゃんとした日本語ではあるのですが、子どもの発言としては不似合いなのです。そのズレが国語力の伸長を阻害してしまう危険を感じました。

さらに、見た目では流暢りゅうちょうに話せているようでも脈絡のない単語の羅列でしかない状態になってしまうと、「すべてがマイペースで、集団で何かをすることができない子」と言われるようになるかもしれません。するとますます、うちの子は自分が安心して帰属できる“場”がなくなり、つねに不安な気持ちでいなければならなくなるでしょう。近所の優しいお年寄りにだって、子どもがどれだけ心を許しているのかわからないのです。本当に怖くなりました。

そんなころ、初めて幼稚園を訪ねた日に園長先生が子どもの前で腰を落とされたことを思い出しました。ハグすることで“子どもと同じ目の高さ”になり、“学び”のスタートに立てる・・・・・・
そういえばジャカルタのメイドたちも、かならず子どもを抱き上げてから話しかけていました。公園のお年寄りも子どもたちの話し相手になってくれるときはかならず座っています。私たち夫婦も、子どもたちと同じ高さの目線で絵本の読み聞かせや動物図鑑を指さししながら見るなど、お互いの注意・関心を共有していこうと思いました。

家族同士で、ことあるごとに「ギュー」(ハグ)する習慣をつけていた幸運に、感謝します。そして我が子の母語である日本語を、丹念に乳幼児レベルから学び直させようというはらが定まりました。いまは“どん底”なのだから、あとは登るしかないと・・・・・・。

祖母といっしょに日光東照宮へ(1988年)

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