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イギリスの都市計画②:歴史的背景

イギリスの都市計画制度はどのようにしてできたのでしょうか。ここでは、その歴史的背景について説明します。

イギリスの都市計画:産業革命とその影響

イギリスでは産業革命が起こった18世紀半ばから19世紀にかけて、農村から都市部への人口流入が急激に増えました。たとえば、ロンドンは19世紀のはじめに人口が80万人を超え、19世紀半ばには180万人にふくれ上がったのです。

またロンドン以外でも、イギリス各地で産業都市が発展し始めました。19世紀半ばにはマンチェスター、リヴァプール、バーミンガム、リーズなど、人口が10万人を超える都市がつぎつぎに出てきました。

そうなると、周りの農村地帯から職を求めて都市に出て来る人が増えました。このような産業化の進展にともなう都市の人口集中は様々な都市問題を引き起こすようになりました。

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ロンドンのスラム街 1872年 (Gustave Dore)


人口と産業の過密による都市の住環境や公衆衛生、交通渋滞はひどくなるばかり。ロンドンやマンチェスターなどの大都市ではスラムが生まれました。都市住民、特に単純労働者や低所得者層は、この絵に描かれているような、ひどい環境で暮らしていたのです。

また、地方から都市に人口が流入した結果、イギリスのあちこちで過疎地が生まれました。そのために人口や経済活動のアンバランスも起こってきました。

17世紀末のイギリスは都市人口が25%程度でした。それが、産業革命の前後で約50%になり、19世紀半ばには75%にまでなったのです。地方から職を求めて都市へと出ていく人が相次いだため、それまで農村にあった地域社会が崩壊するところも出てきました。

都市問題に対する提案

そんな背景の中、街づくりについて考察された提案や試みはありました。たとえばエベネザー・ハワードの田園都市構想などです。

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また、個人の地主や企業が自らが所有している土地において計画的に開発をしたり、環境を改善しようとした実例もありました。
(ボーンヴィルやポートサンライトなど)

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けれども、都市計画が実際に国全体の制度として導入されるまでにはいたりませんでした。

バーロー報告書

そんな中、1940年にイギリスにおける都市問題について考察した『バーロー報告書』が提出されまた。この報告書は、スラムに代表される都市の過密問題や過疎地域における経済問題が都市の無計画性によることを指摘したものです。

その対策として過密地区の再開発、過密地域から産業と産業人口をほかに分散させること、ロンドンなど大都市のさらなる膨張を防止することなどを提案しました。けれども、1939年に第2次世界対戦が始まっていたため、この報告書は戦後になるまで日の目を見ることはありませんでした。

戦後の労働党政府の取り組み

第二次世界大戦後に行われた1945年の総選挙で、戦争を勝利に導いたチャーチル率いる保守党は労働党政権に負けました。二度の大きな大戦でイギリス国民は戦争にはあきあきしたようで、労働党が約束した戦後再建の公約が魅力にうつったのです。

その公約は国民皆保険制度をはじめとする福祉政策、主産業の国有化、経済の再建などと共に、都市計画をも主な政策の一つにあげていました。『都市及び地方計画の実現、公益目的のための土地取得、国家利益のための土地の有効利用を推進するための手続き改正』という項目です。

これにより、バーロー報告書のすすめにもとづいた、新しい都市計画法が導入されたのです。1947年に発布された「都市田園計画法」(Town and Country Planning Act 1947)です。

1947年都市田園計画法

この法律はこれまで世界のどの国でも行われなかった、新しく大胆な都市計画制度をイギリスに導入しました。一言でいうと「開発権の国有化」です。この制度は、大きく下記の2点を主な柱にしています。

1.国土のすべての開発において、地方自治体による許可(Planning Permission)が必要となる
2.開発許可制度の基準となる開発計画(Development Plan)が国土のすべてをカバーする

この制度はイギリスの都市計画制度の骨格といえ、様々な変遷を経て今なお続いています。

「開発権の国有化」なんて、自由経済が当たり前になった今から考えると、大胆な発想です。この当時導入された、主産業の国有化とか「ゆりかごから墓場まで」と言われた国民福祉政策も同様なんですが。

ヒトラーに占領されるかもしれないという危機感で国中が団結してたたかった戦争の後だったからこそ実現した政策なのでしょう。戦争中は身分や立場を問わず、すべての国民が犠牲を強いられました。多くの人が愛する者を亡くしたり、戦場で負傷して命からがら戻ってきたり、財産の多くを失ったりもしたのです。

戦後の復興のために国民全員が、市民社会の最低生活基盤を保証し、新しい社会を作り上げるための政策を、労働党政府に委ねたという背景があったのだと思います。

1979年サッチャー保守党政権での政策

その後1960年代以降、イギリス経済は衰え「英国病」と名付けられる衰退の時代が続きました。その結果、さまざまな経済・社会問題があいついだことで労働党は保守党に政権を奪われました。

1979年に誕生したサッチャー保守党政権は、この問題解決のために、戦後の労働党の政策を次々にくつがえしました。民営化、緊縮財政、規制緩和などを断行したのです。サッチャー政権の施策は資本主義と民間活力を活用し、公的な経済援助や介入を最低限にするものでした。

「鉄の女」サッチャーは、国有企業の民営化、大都市圏行政機関の解体、労働組合の弱体化といった、反対意見の多い施策を次々と実行しました。そして経済発展のさまたげになるとして、都市計画の制度も弱体化しようとしたのです。けれども、その試みは局部的なものにとどまりました。都市計画のおおよその制度は維持され、その後、多少の変遷を経て今にいたっています。

これは、戦後に導入された都市計画の仕組みが、国民医療制度(National Health Service:NHS)などと共に、国民に強く支持され続けているからでしょう。炭鉱が閉鎖されても、国鉄が民営化されても、イギリス国民はNHSと都市計画制度だけは守るべきものと考えているのです。

イギリス人にとって都市計画制度とは?

イギリスの都市計画制度ができあがり、今まで維持され続けてきた経過を振り返ってみました。これが、ハウスマンのパリ計画などのように、政府や権力者が上から押し付けた都市の景観を整える制度とは異なるということがわかりますか。そうではなくて、人間が生活する環境をより良くするための権利を保証するためにできたものなのです。

人間が集まって生活していく上で、必要ではあるが個人では整備することができないものがあります。たとえば、家や職場の配置・開発はもちろん、公の広場や公園、学校などの公的施設、道路網や上下水道、電機、ガスといったインフラなど。

それらの計画・開発を公的機関に委ね、国民ひとりひとりが基本的な環境基準を保証されるための仕組みがイギリスの都市計画制度です。それは、国民医療制度や福祉制度、参政権や言論の自由と同様に、階級や収入、学歴、居住地などと関係なく、国民全員が享受できる基本的な権利なのです。

産業革命以降、市民社会の数々の問題と人々が経験してきた苦しみからやっと勝ち取ってきた市民の基本的人権として、イギリスの都市計画制度はさまざまな問題を抱えながらも、今なお支持されているのでしょう。


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