見出し画像

恋は枯れた-紫陽花の追憶-

最寄駅の駅前公園は、いつもきれいに手入れされ、季節の花が咲き誇っている。冬の椿、春の桜やつつじ、六月に入ってからは紫陽花。利便性だけを考えて一年前から住みはじめた都心の街の意外なほどの風景の美しさが、無性に心を震わせる。半年ほど前、私は海外移住を真剣に考えていたのだが、本当に冬の間に日本を離れていたら、この美しさを知ることもなかった。

駅前公園の紫陽花を、毎朝通勤時に観察していた。
咲き始めのつぼみはどの花も淡く緑がかった白色なのに、だんだんと、花ごとに青やピンク、紫色が濃くなっていく。隣り合った株でも全く色や形が異なる花を咲かせる場合もあるし、同じ株の中でも少しずつ色味が異なっていて、不思議だと思う。

咲き始めはどの花もまっさらな状態で、身近にある葉の緑を宿しているが、成長するにしたがって、それぞれ自分が美しいと思ったものの色を自分の花弁に取り込んでいくのではないか。そんなふうに想像してみる。
朝焼けの薄紫、夏の始めの夜の青色、そして通行人の色とりどりの傘や服の色を映す花弁。
満開の頃を過ぎてしおれ、枯れていくアジサイは、生まれてきたときと同じく緑がかった色をしていた。

※ ※ ※

かつて死ぬほど好きだった男、「メンヘラホイホイ」と呼んでいた元同僚のМとは、時折連絡を取っていた。彼が私と同時進行で別の同僚女性と付き合っていて、唐突に呼び出され「明日結婚するんだ」と知らされたその後も。お互い、同時期に同業他社に転職したので、新しい仕事について情報交換したり励ましあったりしていたのだ。

相も変わらず唐突に「今日会いませんか」という連絡が来るということが何度かあったが、当然のことながらすべて断っていた。
いるよね! 前もって約束したがらない男! 気づこう二十代の頃の私! そういう誘い方をしてくる系の男はこっちを何とも思ってないよ! 
しかし今回は、仕事のことで相談があると言われ、相談内容が私の専門分野に関わることだったので、「自分が必要とされているなら」と思って了承した。
お互いに、別の飲み会を終え、夜の十時頃に待ち合わせた。Мが来るまでのわずかな時間に、改札前で慌てて口紅を塗り直している自分が嫌だった。

仕事の相談にのり、前職場の噂話(主に悪口)をした後、彼の妻が妊娠していることを告げられて、心から祝福した。新しい命の誕生は本当に本当におめでたいことだ。そしてもちろん、「彼の妻となって新しい命を宿していたのは私だったかもしれないのに」なんて考えるほど、私はおめでたくはない。

Мは、結婚後はほとんど酒を飲んでいなかったらしかった。私のペースに合わせて赤ワインのボトルを飲み進めるうち、不自然にこちらに身体を寄せ始めた。

「一緒に働いている間、ずっとぐりこが好きだった」
「じゃあなんでほかの人のところにいったの」
「先に結婚したのはそっちじゃないか」

ああ、そういえばそうだった。すぐ離婚したけれど。

「嫁には性欲を感じない」という決まり文句が出たときには、思わず笑ってしまった。
恋は枯れた。緑がかった茶色が脳裏にちらつく。こんなものを心の支えにしていたのか、こんなものに自分のすべてを委ねたかったのか、二十代の私は。

「もう終電がないからぐりこのうちに泊まる」と言い張るМの酒臭い身体を押しのける。

「私はあのとき、本当にあなたを必要としていたよ。結婚するって聞いてショックだった。結婚することがじゃない、それを隠して平気で私と一緒にいたことが。一年経って、三十歳になって、やっと大丈夫になったんだよ。大丈夫じゃなかった頃の私に戻りたくない。だから、大丈夫なまま帰ろう。」

焦点の定まらない目でこちらの手を握る男をまっすぐに見ながら、私は震える声で語りかけた。かつては「言葉が通じるから、一緒にいて楽しい」と思っていた相手。今はもう、何を言っても、私の言葉が届かないことを知っている。それでも私は言葉を紡いだ。他でもない自分のために。

時刻は深夜二時。最後に、「奥さん妊娠中の朝帰りだけは、まじでやめたほうがいいですよ」と言い捨てて、男をタクシーに押し込んだ。さようなら。

(原題「メンヘラホイホイ(2018年6月)」『早稲女×三十歳・完全版』所収)



※この記事は、拙著『早稲女×三十歳・完全版』に掲載したエッセイを、一部加筆修正したものです。この本はBOOTHで通販を行っております↓

どうぞよろしくお願いします!

この記事が参加している募集

スキしてみて

日記を読んでくださってありがとうございます。サポートは文学フリマ東京で頒布する同人誌の製作(+お酒とサウナ)に使わせていただきます。