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ひとりで戦って生きているあなたへ、或いはとあるボクサーの話

「ナガノさんてK大卒でボクシング部だったんだって。アマチュアでチャンピオン獲ってるらしいよ」

母がキッチンの脚立に座って唐突にそう言ったのは、確か私が中学の頃だった。一年生の頃だったように思う。
私と妹はそれを聞いて「かっこいいーーっ」とはしゃいで、それ以来ナガノさんは私たちの間で『ボクサー』と呼称されることになる。

ボクサーは当時、父の経営する税理士事務所で勤めていた。
父のいちばん古い部下で、仕事ができる。
母曰く、「女癖が悪いのが玉に瑕」とのことだった。

私が中学三年生の頃、家族旅行と、父の会社の社員旅行が同時開催された。行き先はハワイ・マウイ島だった。

その頃には事務所に新顔のサカシタさんという男性が入っており、ちなみに彼は私が最初に父の事務所に勤めた時には『エンジェル』と呼称されることになる。まだ先の話だ。

私も妹も、真新しいエンジェルよりも昔馴染みのボクサーに懐いた。

「本当にチャンピオンなんですか?」
「昔の話だよ」

私が目をキラキラさせながら聞けば彼は笑ってそう言った。私は当時キックボクシングを習っていたので、ボクサーの経歴は眩しくて仕方なかった。

ボクサー、そしてエンジェルと再開したのは私が二十四の頃だった。
当時私はその辺に落ちてた男(※当時の彼氏にして現在でいうところの元夫)と同棲しており、体調は最悪だった。

ボクサーは落ちぶれていた。

税理士試験とは、簡単に言えば「とっても難しい」。とにかく科目数が多く、社会人になってから取ろうとすれば資格取得までに十年かかるとも言われている。

ボクサーは税理士資格を取れずにいて、エンジェルが先に取ってしまったのだ。
父はそれでエンジェルを重用視し、ボクサーはいつも座席で天井を見ていた。きっと思うところがあったのだろう。
彼は退職するということで、代わりにもならない私が事務員として勤め始めていたのだ。

「いやナガノさんだけは手放しちゃダメでしょ。ナガノさんにどれだけ世話になったと思ってんのあの男」

既に父と離婚していた母に言えば母は目を点にして、ややあって声を荒げた。

「あの事務所はナガノさんがいたからあそこまで大きくなったのよ。ナガノさんがいなければ、パパだけだったらあんなに仕事を回せなかったよ。ママも手伝ってたけど、ナガノさんにどれだけ助けられたことか」

ボクサーの退職の日、体調の都合から仕事を休みがちだった私は運良く出勤することができて、ボクサーが喫煙所がわりだった水場で煙草を吸ってる時にこっそりそれを伝えれば彼は笑った。「昔の話だよ」と言った時と同じ顔で笑った。

「ありがとうね。お母さんにもよろしく」

そう言って彼は辞めていった。

私がボクサーと再会したのは私が二度目に父の事務所に勤めた時、四月の飲み会でだった。
エンジェルは既に独立して自分の事務所を持っただとかで事務所におらず、ボクサーは父の事務所の確定申告の手伝いに来てくれていたのだ。

ボクサーは生き生きとしていた。
落ちぶれていた日々が嘘のようだった。
腰元にチャンピオンベルトが見えるくらい元気で、よく飲み、笑った。

「体調どう?別れたんだって?」

飲み会を抜け出して二人で煙草を吸ってる時、ボクサーは私に聞いた。
ボクサーはアイコス、私は当時グローを吸っていて、四月の銀座の夜のひんやりした空気がいやに湿っぽかった。

「それなりに。まあ元旦那は碌な男じゃなかったけど。それでも幸せだったかな」
「結婚て難しいよなーっ。俺もたまに考える」
「別れても別れなくてもそれなりに楽しいしそれなりに辛いですよ」
「んはは。間違いない」

聞けば彼はまさにあのハワイ旅行のあたりに結婚した奥様との間に女の子をもうけ、何処だかの企業の監査役として暮らしているそうだった。
税理士資格などなくても彼は仕事ができる、きっとそれなりに豊かに暮らしているだろう。

ボクサーは近年、確定申告の時だけ毎回事務所に手伝いに来てくれているようだった。
今年の二月と三月にも手伝いに来てくれて、喫煙者同士、喫煙所でダラダラ雑談をしたりもしている。

「体調どう?」
「今体調崩したら全てが“終焉”るからめちゃくちゃ気を付けてます」
「間違いない」

彼は剛毅にそう笑って、キャメルを吸っている。
アイコスへの移行に失敗したそうで、私も吸う煙草をピースに戻していた。

「今夜デートなんすよ」
「まだ若いもんね。勿体無い」
「このまま腐らせるのも贅沢と言えば贅沢で魅力的ですけど、寂しくなっちゃって」
「いっぱいいろんな男と付き合いな。きっと楽しいよ」

彼はもしかしたら、父から私がまともに付き合った男性が元夫だけなのを聞いていたのかもしれない。しかし深くは言及せず、「楽しんでね」とだけ言って自席に戻って行った。
たぶん、子供の時分から知ってる娘が碌な生活もせずにふわふわ生きてるのが心配なのだろうな、とその輪郭だけを掴んだ。

今年の確定申告の打ち上げ、四月の飲み会にもボクサーは来た。
その会は屋形船での花見がメインで、曰く地元の友達が何だかがスタッフとして務めているらしく、実際に気風の良いお姉さんが私たちに鰻をオマケしてくれた。

「件の男とはどうなの。マトモだろうな」

船上で吸う煙草は美味い。ボクサーは事務所に勤めるカワモトさんという女性に貰い煙草をしながら私に聞いた。

「聞いてくださいよ」
「おうどうした」
「デートめっちゃ良い感じだったんすよ」
「うん」
「三時間くらいひっきりなしに話して。生い立ちの話から政権批判までして」
「ブッ」
「それ以降連絡が取れない」
「ダハハハ」

ボクサーは派手に笑ってから「めぐるちゃんのことだから、どうせベシャリが過ぎたんでしょ」と煙草を揉み消す。

「体調はどうなの?」
「まあまあかな。一人暮らしを始めて、昔より不調を引きずらなくなりました」
「何処住んでんの?」
「実家の近く。たまに父が食糧の配給に来ます」
「戦時下?」
「だいたいあってる」

ボクサーは一頻り笑ってから「身体に気をつけてね」と船内に戻って行った。

さて本日。
今日はハラさんという女性の送別会も兼ねた飲み会だった。彼女は病気の療養のために退職するのだ。
ボクサーも何故か混ざるそうだと事前に聞いていた。ボクサーは何かと理由をつけて飲み会に来るので、まあそんなもんかという所感。

しかし私は体調が優れず、普段なら眉だけ描いて出社するところを信じられないくらいキッチリおしゃれした割に地獄の情緒不安定に苛まれていた。
現実から逃げるように喫煙所に駆け込み、ピースを三本吸う。

帰ろっかな。楽しい空気に水さすのも悪いし。
でもハラさんと最後にお喋りしたいな。
中華か。お寿司食べたかったな。

取り止めのないことを考えていれば、喫煙所のドアが開いた。
ピンクの花柄のマーメイドスカートなんて乙女なものを着てる笑に大股開いて座り込んで行儀悪く煙草を吸っていた私がビクッと身を竦ませれば、「なんて格好してんだ」とボクサーが缶コーヒー片手に乗り込んできた。

「見られたーっ。帰りてーっ」
「女の子なんだから〜」
「すんません。本当。もう嫌」
「わはは」

私はわざとらしくも一頻り笑って、壁に寄りかかって煙草を吸う。足をちゃんと閉じて。

「煙草やめたんだ。二ヶ月目」
「ヒュウ。ピースのアロマビンテージ持ってくれば良かった。あれ美味いんすよ」
「はは」

会話は上滑りに明るく、虚しささえある。

「体調どう?」

ボクサーは唐突に聞いた。
いつもこの人私の体調聞くな、と私は可笑しく思って、同時に泣きたくなった。

生まれてから今まで、一丁前にさまざまな外敵、或いは内敵と一人で戦って来た気でいる私も、たくさんの人に気に掛けられて生きて来たのだと突然理解してしまって、蹲って泣きたい気分だった。
せめて本当に一人であればどれだけ良かったか。
幼少期は親戚と戦い、少女期は母と上手くやれず、大人になってからは元夫と戦ってきた。
戦ってきた当時の所感、味方はいなかった。
だから私は壊れたし、逆にだから常に死力をもって敵と相対してこれたとも言う。
人を恨んで憎んで生きて死ぬのはエネルギーを使うが、それをしてきたところでいきなり目に見えていなかった味方の存在に気がつくのは精神に来るものがある。
いつだってそうだ。父。友人たち。ボクサーまで。

「最悪。帰るかも」

私が言えばボクサーはちょっと笑った。

実際に私は飲み会に行かなかった。

「ナガノさん来てるよ」というハラさんの言葉に「さっき喫煙所で話した」と言えば「先生より先にめぐるちゃんに挨拶してんの」と彼女は笑って、「元気でね」とハグをした。「絶対治るから。大丈夫だよ」と私は彼女に無責任な約束をした。

私の帰り際、ボクサーはすれ違い様に私の肩を叩いた。
彼の着たピンクのポロシャツが視界を過って、重たくがっしりした手を右肩に感じる。

きっとボクサーだけではない、私には見えない味方がまだ何処かにたくさんいて、小さい頃からそういう人たちに見守られて来たのだろうと確かに思った。
だから私はきっともう“死ぬ気”にはなれないし、そのぶんこれから先優しく生きられるのだろう。

今ひとりで戦って生きているあなたへ。
きっと何処か、思ったより近くに、あなたの味方もいるはずだ。
だからどうか、優しく生きてほしい。

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