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瞳の中の王国

もう随分前に家族旅行で沖縄へ行ったことがある。まだコロナのコの字も出てきていないときのこと。リゾートホテルなんかの開発も今ほどには進んでいなかった。家族は初めての沖縄だったから、北部に行かず南部をじっくり廻ることにした。

沖縄南部は生まれて初めての一人旅で行った土地だった。戦時下、激戦地であったが――それゆえの悲劇を旅行前にいくつも調べたが――そのことを胸の奥深い場所に沈め抱えながら、その地を歩くことは自分なりの巡礼のように思えた。

また、沖縄特有の信仰を感じる旅は、いくつもの「場所」や「人」の光景の記憶をわたしに残した。斎場御嶽でユタさんのオガミをこの目で見ることができたのは本当に幸運だった。巨大な岩と向き合い、大量の捧げ物とクライアントを背に、誇り高く背を伸ばし、そして伏して拝む。神は否応なしに奪い、そして与える――。そういうものを、一人、見たのだった。

そうしてわたしは沖縄が大好きになっていたので、家族も好きになってくれたらいいなと思っていた。おすすめの場所に行ったり、新しい場所を見てみたり――その中でも美しかったのはやはり海だった。

帰るために空港に行く前に少しだけ居ることができたのは、北名城ビーチという浜だった。エージナ島という神聖な小さな島があり、潮が引くと傍に行ける。なんとなくだが、おそらくオガミをしている方がいるのだろう浜だった。

表側の開かれた場所が(たぶん)地元の方が多かったので、隅の方の浜を歩いて、奥にある気に入った場所で、自分たちの土地へ帰るまでの静かなひとときを過ごした。あれはなんだったのだろう。あの時間は。思い出そうとすれば白く霞むが、「そこ」に何があるか、きっと、本当はわかっているのだと思う。ガイドブックにあるような沖縄の海の青さではなく。どこまでも透明で、日差しは白く、自分が何者でもない存在になっていく――あの感覚。

(海の向こうにニライカナイを見たひとの目になって、)

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現在、北名城ビーチは公園という位置づけになったのか、多くの人が集まるようになったようだったし、リゾートホテル建設反対運動があった名城ビーチ(北名城ビーチと砂浜で繋がっている)には、今は大きくきれいなホテルが建てられているらしい。

わたしはあの土地にとってひとりの観光客でしかないが、踏みにじられる、という言葉が浮かんでしまう。土地は踏みにじられる。その地に染み込んだ血も憎しみも悲しみも、怒りも、祈りも。踏み躙られてしまう。悪意さえもたない、貪欲な、肥え太ったバケモノに。何事もなかったかのように。(それでもいつか、それらは噴き出すときがくるだろう)

悲しみではない。悔しさでもない。ただひたすら流動し変わっていく世界の中で、わたしが繋ぎ留めた景色。あの土地の白さ、透明さ――巨大な南国の木々の根、生命力、鮮やかな赤い花、じりじりと肌を焦がしながら、わたしの眼が、守護を司る獣の瞳を映す。

幻想よりももっと近く、記憶の中のその王国に居た日々は、わたしの一部となっている。