冬と闇のこと
大人と呼ばれる年齢になってから、冬を好きだったことがなかった。北国の冬はとにかく長く、暗く、寒く、やまもりに積もった雪に閉ざされた圧迫感が喉を締め付けて、うまく呼吸ができなくなって、いつも苦しかった。
単純に日光が足りないせいもあっただろうし、自分の心身の調子が悪い時期であったせいもあるし、人生のそういう期間であったせいでもあるだろうが、冬は特に救いようがない気持ちになることが多かった。自分に対して。
冬の美しさに意識を向けられるようになったのは、2022年終盤の冬からだった。積雪量が少ないおかげでもあったかもしれない。それでもわたしは冬という季節の美しさに、やっと、目を向けられるようになった。
海辺で瑪瑙を探していて、目が慣れると、ひとつ見つけた先に次々といくつもの瑪瑙を発見できることがある。
冬の美しさもそうだった。
今までは目に入らなかった(目には入っていてもそれどころではなかった)冬の持つ美しさ、光景、空気、そういうものを次々と見つけられるようになった。
他の人が見つけた景色もそうだし、自分が見つけたものも、大切に数えられるようになった。凍り付く川、湖、雪を枝に積もらせた木々、空に踊る霧のような雪雲、金色の日射し、きらきらと光る雪原、動物たちの足跡、凍った氷柱の中の泡、ごうごうと吠える天空の風の音、頬を打つ雪の冷たさ、痛み、猛吹雪の中に雪女の影を見る――。
冬という季節が「原初の闇」を内包していることに気づいたのも、この冬のことだった。「原初の闇」は生命が生まれる前の闇でありながら、生命の苗床でもあり揺り籠でもあり、それゆえに「死」と親しく、時に畏れを思い出させる。あまりに美しいものが、おそろしくも感じられるように。
何よりも暗く、何よりも透明で。
そういう聖なる闇を、冬は抱いていると思った。そういう季節に、わたしは生まれたのだった。いまはそのことをとても嬉しく思う。そして過ぎ去っていく冬の一族を、愛おしく思うのだ。