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青い鳥と幸せの国【日記:2023/5/6】

メーテルリンクの『青い鳥』の原作を読んだ。
有名な作品なので説明不要だとは思いますが、本作はチルチルとミチルという兄弟が魔法使いのお婆さんに頼まれて、幸せを運ぶという青い鳥を探すお話です。『青い鳥』と言って、幸せを表すレトリックを聞いたことがある人も多いでしょう。今日はそれについてちょっと語りたい。

大筋としては最初に言ったことが全てで、幸せの青い鳥は遠い場所じゃなくて自分たちの身近にあったという形で幕を閉じる。本作について語られる時も、大抵の場合このエンディングについて触れて「だから日常を大事にしましょう」という結論に帰結に帰結するだけで、そこに至るまでの過程について語られることはあまりありません。今日話したいのはどちらかと言うと、その過程の部分についてです。

本作において、主人公のチルチルとミチルは自宅で青い鳥を捕まえるまでに、3つの世界を旅している。『思い出の国』『夜の国』『幸せの国』の3つです。前者二つの国では青い鳥を見つけることはできたものの、移動させると消えてしまう性質から持ち帰れず、後者の『幸せの国』では人々が幸せ過ぎるあまりに青い鳥が住んでいなかったという展開。結局二人のミッションは失敗に終わり、いつの間にか家で寝ていたという流れを辿ります。

なので少なくとも本作においては『思い出の国』『夜の国』『幸せの国』の3つの国に真の幸せはなく、日常にこそ真の幸せがあるという結論なのだと思うのですが、よくよく考えてみるとこれって結構哲学的というか考えさせられるような見解じゃないでしょうか?
思い出=過去、夜=非日常(あるいは孤独?)は過ぎてしまえば霧散してしまうから真の幸せではない、とでも言われたらまあ納得できますが、幸せの国はいったい何がダメなんでしょうか。

この点に関しては恐らく色々な意見があるでしょうが、私は個人で幸せが完成してしまっているというのが問題だったのかなと感じました。
物語の目的は幸せの象徴たる青い鳥をお婆さんに渡すことであり、自分たちで所有することではない。だから個々で幸せになっており、他人に幸せを渡す必要がない『幸せの国』には青い鳥がいないという話なのでしょう。
実際本文の最初の方に書かれてますしね。青い鳥は幸せそのものではなくて、幸せを運ぶ鳥だって。

以上、『青い鳥』を読んでみての簡単な感想でした。

【補遺】幸せの国で描写されている3人について

幸せの国に住む人間としては、
①たくさんのごちそうを食べている太ったおじさん
②お店に並んだドレスを選んでいるお金持ちの奥さん
③チルチルとミチルのお母さんに似た女性
の3名が登場する。
①と②に関しては、個人で幸せが完結している人間と言われても違和感がないでしょうが、③に関しては恐らく「子供という他人と幸せを共有しているじゃないか」という反論があると思うので、一応補足します。

確かに③に関してはおっしゃる通りで、その女性はチルチルミチルの二人を優しく抱き寄せてキスした上「お母さんの幸せは、子供たちなのよ」と言っている。一見してみると愛に溢れ、相互に幸せを受け渡し合っているように見えます。ですが実際に読んでみれば分かるのですが、このシーンお母さんそっくりな女性とチルチルミチルの二人との会話は一切ありません。
冒頭とラストの現実世界や一番最初に行った『思い出の国』では出会った人と会話をしていたのに……
それにそもそも、相手はお母さんそっくりな女性であってお母さんそのものではありません。実際にどうなのか、お母さんのコピー体のような存在なのかは分かりませんが、少なくともチルチルとミチルにとっては違う存在なはず。それが急に抱きしめてきて、キスまでしてくる。
それはある意味ホラーというか、独りよがりの愛なのではないでしょうか?

自分で言っていてもそこそこ無理があるとは感じるので、これが正しい読み方だと主張する気はありませんが、こうやって考えると物語に一本筋を通せるなあとは思う。
「お母さんの幸せは、子供たちなのよ」
もしこのセリフを母親の独善的な愛、子供からの愛の返答がない言葉として描いているのだとしたら、著者のメーテルリンクは結構性格悪いですね。
捕まえられないけど、『夜の国』にこそ一番『青い鳥』が住んでるとか描写してるし、きっと陰キャだったんだろうな……





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