会社は稼げてナンボです。

会社は稼げてナンボ、です。

いきなり偉そうにすみません。でもほんとにそう思っています。

「いいことをやっているんだから、お金は二の次でいい」
「そんなに稼げなくても、楽しいことができていればいい」

そういうセリフもときどき耳にします。たしかに、世の中に貢献することや楽しい仕事をすることも大事です。

しかし経営は、そんな考えでは意味がないと思います。

どんなに立派なビジョンを掲げても、お金がなければなにもできません。社会貢献どころか、目の前にいる社員や、その家族を守ることすらできない。

それは僕が9年前に父から継いだ印刷会社を経営するなかで、身をもって感じてきたことです。

「ピンチの社員を見捨てる会社」になっていないか

人生には、「自分でコントロールができない瞬間」が訪れるものです。

たとえば、自分や子供が大きな病気にかかる。ご両親に介護が必要になる。そのタイミングは、誰もコントロールできません。誰にでも、突然ふりかかるものです。

社員がそんな状況になれば、どうしても普通に働けなくなってしまうでしょう。

そういうとき、会社がどう対応するか。それは「社員が会社に誇りを持てるかどうか」の根底に関わります。仲間のピンチへの会社の対応が、きちんと納得できるものかどうか、社員はよく見ているのです。

「この会社は、いざというとき社員のことを見捨てないんだ」という安心感は、毎日がんばって働くための、いちばん根本の土台になります。

お金がないと、誰も救えない

そういうとき、最終的にはやっぱりお金が大事です。お金のない会社は、対応したくてもできないからです。

たとえば、ご両親に介護が必要で、普通に働けなくなった社員がいるとします。そのときに「働ける環境は整えておくから、落ち着いたら戻ってくればいいよ」と言えるかどうか。お金がないと、そう言いたくても言ってあげられません。

社員が体調を崩してしまったときもそうです。いちおう就業規則では、休職期間の上限は決まっています。でも、僕からその子に「辞めてくれ」と言ったりはしません。

そういうときの対応と、ビジネス的な損得勘定は、僕は分けて考えています。

あまり大きな声ではいえませんが、会社に制度がなくても介護の手当を出したり、給料を増やしたりすることは、中小企業のオーナー社長ならいくらでもできるものです。上場もしていないし、株主への説明責任があるわけでもありませんから。

そういった特例の措置を、公に発表するわけではありません。ただ、うちは全体で140名ほどの中小企業です。このぐらいの規模だと、どこからか話が漏れ伝わるものです。だからこそ、いい意味で「属人的な、制度の外の対応をする」ことも必要だと思っています。

会社は社員の生活と直結しています。

あたりまえのことですが、会社が大きくなるにつれ忘れられがちです。

それは金銭面だけではありません。大人になると、家族と離れて暮らす人も多くいます。そういう人がいざというときに頼れるコミュニティとして、会社や同僚たちの存在は大きいと思うんです。

僕自身、ピンチのときに国や自治体はあまり頼りにならないと思っています。だからこそ、会社は「頼れる存在」であり続けたい。働きたくても働けない社員に対して「辞めてもらう」という選択肢しかとれないのなら、会社が存在している意味はないと思います。

だからやっぱり、会社は稼げてナンボです。お金がないと、誰も救えないからです。

会社は「部活」である

会社とはどんな存在なのでしょうか?

ある人は「機能だ」と言います。会社といえども所詮はビジネスの道具。ただの機能でしょ、と。

ある人は「家族だ」と言います。家族のように助け合いながら、みんなで支え合って行きていく。それが会社というものでしょ、と。

ただ僕は「社員は家族だ」という言葉には、ちょっと違和感があるんです。

「家族的経営」という名のもとで、アナログで古い経営システムを押しつけているのではないか、と思うからです。

人事評価もあいまいで、給与も払わず、ビジョンを示さず、戦略的にやれない。実は僕らの会社も、数年前まではそれに近しい状況でした。代替わりしてから少しずつ、人事制度やビジョンなどを整えていきました。

「家族的経営」という言葉は、ときにそんな古い経営スタイルを正当化する「言い訳」になっている気がするのです。

僕は会社を「部活」だと考えています。

もちろん部活には給料はありませんし、お客さんもいません。そういう意味では会社とはちがいます。

ただ、「部活」という組織で考えるとあたりまえのことが、「会社」になるとややこしくなりがちだと思うのです。

ビジネスを甲子園だとすれば、会社はいろいろな学校の野球部です。すると、優勝を狙う野球部もあれば、地区大会に出場するのが目標の野球部もある。そもそも甲子園を目指さない野球部もあるでしょう。おなじ野球部でも、「どこを目指すか」はそれぞれちがうものです。

目指す場所が変われば、鍛え方も変わります。

甲子園を目指しているチームだとしたら、「甲子園行くのに、これくらいでへこたれてどうするんだよ」と言って、厳しく鍛えるのも当然でしょう。逆に、部活より勉強を重視するチームなら「今週は期末テストがあるから、練習時間を短くしよう」というかもしれません。

僕の理想は「甲子園を目指す強豪校の野球部」です。

強くなりたいから、ちゃんと鍛える。鍛えていくなかで、チームの誰かが怪我をするときもあるでしょう。そのとき、成果を出したくてがんばってきた仲間を見捨てるなんてことはあり得ないはずです。チームのみんなは、怪我をした仲間の悔しい気持ちがわかるからです。

会社も、そうやってシンプルに考えればいいと思うんです。

「経済か、道徳か」というナンセンスな議論

経営に限らず、「白か黒か」みたいな議論をしたがる人は多くいます。

お金をとるか、生活をとるか。利益をとるか、働きがいをとるか。質か、量か。「ポジショニング戦略」か、「ケーパビリティ戦略」か……。

僕は「両方とも大事」でいいと思っています。

八方美人みたいに思われるかもしれませんが、そもそも二項対立で考える必要なんてないはず。ふつうの感覚で、シンプルに考えたら、お金も生活もどちらも大事です。

二宮尊徳の名言にこんなものがあります。

"理念なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である"

経済なき道徳なんて、結局はきれいごとだ。一方で、道徳なき経済は罪悪だ。つまり「理念も経済も、両方大事だ」ということです。

まさに、現代の経営の答えそのものだと思います。

ついてきてくれる人がいて、初めて「経営者」になれる

人はなぜ働くのか。

理由はさまざまでしょうが、やっぱりみんな半分は「お金」のためです。

どんなに魅力的なビジョンを掲げていても、稼げない経営者についていくのは嫌ですよね。誰だって「給料が下がるかもしれない」と思いながら働くのはしんどいです。

ただ僕は「社長が社員を養ってあげている」とも思わないのです。

それは「二代目社長」だからかもしれません。

自ら創業したわけではなく、父からバトンを受けとっただけ。社長になるまでは、いまの会社でイチ社員として働いてきました。

僕は新卒で別の印刷会社に就職したのちに、父の会社に入社しました。そのときは、まだ27歳のペーペーでした。それから今に至るまで、本当にたくさんの人に助けてもらいました。

社長一人では会社は成り立たないことを、肌で感じてきたんです。

「社長が社員を養っている」というのは、裏を返すと「本当は社員がいなくても一人でやっていける」というふうに聞こえてしまう気がします。それを、これまでたくさんの人に助けてもらった僕がいうのは、ちょっと傲慢だと思うんです。

ドラッカーは「リーダーの定義は、付き従う人がいるかどうかだ」といいました。

フォロワーがいて初めてリーダーになれる。人はリーダーに「なる」のではなく、フォロワーがリーダーに「させてくれる」のです。

会社も同じです。ついてきてくれる人がいてはじめて、本当の「経営者」になれるんです。

だから「会社は稼げてナンボ」

ついてきてくれる社員がいるから、僕は会社をやれています。ただ、だからといって社員を優しく甘やかすことはありません。

僕は「優しくて冷たい会社」よりも、「厳しくて温かい会社」のほうがいいと思っています。

目の前の社員にはすごく優しく接して、結局まったく成果を出せず、行き着くところは大規模なリストラ……。そんな会社を見てきた経験があるからです。

だから、成果を出せない社員は厳しく鍛えます。きちんとお金を稼いで、社員が健康や家庭の問題に見舞われたときには、ちゃんと守る。採用のときも、「この人の人生に責任を持とう」と思える人しか選びません。そういう「厳しくて温かい会社」にしたいのです。

「稼ぐ」覚悟があるからこそ、いい人材が育ち、いい人が集まってくる。

だからやっぱり、会社は稼げてナンボだと思うのです。

こんにちは。最後までお読み頂きましてありがとうございます。このnoteは僕のつたない経営や、インナーブランディングを行う中でのつまづきや失敗からの学びです。少しでも何か皆様のお役に立てたら嬉しいです。サポートはより良い会社づくりのための社員に配るお菓子代に使わせていただきます!