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《エッセイ》人生のうるおい。余命宣告を受けて1年たった今

辛くて苦しいことが多い人生というものにうるおいをもたらすため、必要なことは何か。その答えは人それぞれだと思う。
私の話になってしまうが、私はここ数年で自分にとっての〝其れ〟を見つけたように感じている。見つけるまでになぜこんなに時間を要したのかはよくわからないが、いつのまにか毎日のようにやるようになった事柄ばかりで、今思えば、この行為がまさしく私の人生のうるおいになっているな…と後から気がついたという表現が正しい。
で、それは何なのかというと、まずお気に入りのYoutubeの動画を見ること。同調してくださる方が結構たくさんいるかもしれない。今は子供もYoutubeを見る時代だというし。
もう少し詳しく説明すると、私が特に好きなのは、フードファイター(いわゆる大食いタレントさん)が、まったりとお寿司を100皿食べたり、焼き肉を楽しんだりする動画である。
次々とお寿司をパクパクたいらげていく様子や、いろいろなお肉を上手に焼いて白米と共に頬張る様子を見ていると、頭の中が真っ白になっていく。常に頭の中の自分と会話しながら生きている私にとって、非常に心と頭が休まる時間になる。他の動画ももちろん見るけれど、思考がピタリと止まるのは、不思議とお寿司と焼き肉の動画だけなのであった。
当然、同じ動画を毎日のように何度も見ることになるのだが、どこかで読んだところによると、人生には無駄な時間がある程度は必要だと言うし、そもそも心と頭が休まっているので無駄ではないとも言えるから、特に気にしていない。

動画はパソコンで見ることが多いです。

病気をしてから、少しだけ自分の身体の健康というものに関心を持つようになった。そして、自分ができる範囲で自分の身体にとって良いことをする、という行為も、私の人生のうるおいになりつつある(これは大発見だった)。
なんとなく始めてもう一年になる、ヨガ。今までそんなことをまるでしたことがないガチガチの身体でやるそれは、とても見られたモノではないが、それでも良いのは(またYoutubeの話になってしまうが)、今は様々なすばらしいコンテンツがあって、家から一歩も出ないで(ひきこもりにとっては何より嬉しい言葉)、誰にも見られることなく取り組めるというところである。
果たして本当に正しくポーズがとれているのか確かめる術がないというのが唯一の欠点ではあるが、まあ身体が痛くなければ悪いことはないだろうと非常に〝ゆるい〟気持ちでやっている。
一年間やり続けて効果はどうなのかというと、身体の柔軟性は少しだけ上がったような気がする。さらにやっている途中の呼吸が、始めた時よりも深くできるようになった。たったそれだけ。それだけだけど、なんとなく続けている。
身体に良いことをしている気分になりたいだけ、なのかもしれない。だがしかしその気分こそが私の人生にうるおいをもたらす。

食べるものも普段は少しだけ気をつかうようになった。私の大好物と言えばカップラーメンやファーストフードだが、それらを食べる時以外はよく蒸し野菜を食べる。ズボラな私はせいろなどとても管理できたものではないので、スリコのスチーム鍋に切った野菜と少量の水をぶち込んで電子レンジでチンするだけ。味はあんまりつけない。けれどこれがハマる。あの野菜は?ひょっとしてあれも…と何もかも蒸してみたくなる。個人的に好きなのはナス。かなりのポテンシャルを秘めている。じゅわっと感たまらん。
まあ野菜だから身体に良いだろうとこれもかなり〝ゆるい〟気持ちで食べている。これも、身体に良いことをしている気分を得るためにしていると言ってよい。基本、適当である。でも私という人間はどうも、適当じゃないと物事を続けられないらしいのだ。

もう1つ、紹介というか書いておきたいうるおいとして、書くことと読むことがある。いつでも書き、読んできた私だが、この2つにもうるおいにするための大切なポイントというか、コツのようなものがある。
まず、書くことについて言うと、毎日欠かさず書いている手帳があるのだが、とにかくその手帳にだけは、とことん正直な自分で向き合うようにしている。思ったままを、感じたままを書く。だから、良いことばかりでなく、酷いことや恥ずかしいことやくだらない愚痴も書く。とにかく、何でも。結果、誰にも決して見せられない非常に危険な代物が爆誕するわけであるが、良い。これがかなりのデトックスになるからだ。


そして、読むことをうるおいにする私なりのコツは、〝朝、時間を決めて古典を読む時間をとる〟という方法である。読むことに関してはかなりゆるめで自由主義である方だと自負しているが、この朝の読書だけは、ルールのように決めて読むことにしている。
朝ごはんを食べ終わったら、必ず古典作品を読む。自分の中でもう決めている決定事項なので、少なくともそれを成し遂げるまでは、〝何しようかな…〟とダラダラ迷ったり、スマホをいじったりすることもない。何よりその後、だるくて面倒臭かったりして、何もできない酷い一日を過ごしてしまったとしても、こう自分に言い訳ができる。
〝まあ、朝古典読んだしな…〟
こう思えることが私にとってとても重要なポイントで、さらにそんな気分を高めるために、あえて読む本も古典に限っている。
なんかわかんないけど、古典ってタメになりそうじゃん??ということである(これも適当)。
私はどうやら朝が一番頭がよく回転するようなので、多少難しい文章も、夜に読むより格段にスラスラと読める。嫌にならないように、わからない部分があっても、まあいいかと思って読み飛ばす。
それでもとにかく〝私は今朝古典を読んだ〟という事実が大切なのであって、いつの間にかそれが習慣になった。

ここまで書いて思ったが、結構いろんなことに対して私は適当でゆるいのだな…。昔から完璧主義のきらいがあって、自分で自分をがんじがらめにして動けないということがたくさんあった。このように肩の力がうまく抜けるようになったのは、ここ最近のことだ。少し生きやすくなったと感じているが、同時に歳をとったのかもしれないな、と複雑な気持ちでもある。


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