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まちの記憶 【軍艦島訪問記録】

文学表現法という授業の課題で書いたエッセイです。いくつかの一文を与えられてその中で好きな一文を冒頭として文章を書くという課題でした。これは、軍艦島に行った話。この話の後、波に晒されて頭から海水を被って、凍えそうになりました。

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街にはさまざまな営みがあって、誰もいなくなるとその跡だけが残る。長崎港から30分ほど船に揺られて、遠くにその陰が見えてきた。端島、通称軍艦島だ。

その日は、2泊3日の旅行の二日目で、私たちは朝一番に博多から高速バスに乗って、11時前に長崎についた。そこから路面電車で眼鏡橋まで行って、川沿いを散歩して、中華街で角煮まんじゅうを食べた。中華街を抜けて、少し歩くと、出島があって、でも軍艦島にいく船まであまり時間がなかったので、出島の石垣に沿って歩いて、それでなんとなく地形を感じたので出島はOKということにした。
軍艦島に行くには、長崎港ターミナルから船に乗る。ターミナルのチケット売り場で、検温をして、島に上陸するための誓約書を提出して、船に乗る手続きがやっと終わった。長崎県が定める条例で、いくつかの条件が揃わないと軍艦島には上陸できないそうで、その日は、「外海がうねっていて、上陸できるかどうかは現地で船長が判断するので、ご了承ください」とチケット売り場の窓口で言われた。このツアー会社では、1日に2便運航していて、午前中の便は無事上陸できたらしいので、これも運試しだと思って、私たちは乗り場に向かった。

船が出港すると予告通り揺れた。船に乗ったときには、船内の席は埋まっていて、私たちは2階のデッキ席に座っていたので、船の揺れ具合でたまに波しぶきがかかった。11月初めの風が強い日だったので、海風の冷たさに身震いをして、港の工場群を横目に見送った。湾に出て、いくつかの島を追い越すと、その先にそれが蜃気楼のようにぼんやりと見えてきた。軍艦島だった。岩肌にコンクリートでできた高層の建物がいくつも張り付いたそのシルエットは、ここに来るまでに通り過ぎたどの島とも違って、異質だった。都市であるのに、人の気配を全く感じない。それでも海の真ん中に取り残された人工物は、なにか人を圧倒するエネルギーを放っていた。船は、ゆっくりと旋回しながら、ようやく島の入り口のドルフィン桟橋に接岸した。ここに来るまで、かなり波も高くて、船が接岸している間もかなり揺れていたが、どうやら上陸ができるようだ。

島に上陸すると、一般の観光客は整備された見学コースを案内される。整備された柵を越えた向こう側は、一面瓦礫で覆われていて、このまちは、一つ風が吹くだけで、姿が変わってしまうということが、堤防を越えて吹きつけてくる海からの風のなか、肌でわかった。一般の見学コースでは、炭鉱施設が集まる東側を見学することができる。かつてここで働いていた人々はこの場所から、地下の炭鉱に降りて行ったらしい。道を行くと、真水を引くためのパイプが通っていた大きな穴や、25mプールなど、人々が生活していた面影が少しずつ垣間見えた。そして、見学コースの一番奥には、30号棟がある。この建物は、コンクリートで造られた高層の建物では、日本で一番古いもので、今はもう劣化で欠落している場所が何箇所か見て取れた。つい今年の台風で、大きく崩れてしまったという。港から19kmも離れた島で暮らしていた人たちは、危険な仕事の見返りに、裕福な暮らしを送っていたらしい。今は、電気も水道も通っていなくて、無機物に囲まれて、海に晒された逃げ場がどこにもないようなまちだけど、つい半世紀前までは明かりが煌々と灯っていたはずだ。

街にはさまざまな営みがあって、誰もいなくなるとその跡だけが残る。この島に残された跡は、時間や海からの風と波によって少しずつかき消されそうになっている。でも、ここはいまだに誰かの故郷で、私の知らないこのまちの記憶はそんな誰かのなかに、今も息づいていると、船のように見えるまちを見送りながら、私はそう信じたくなった。

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