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セリーナ猛抗議の是非をどう考える?『判決、ふたつの希望』

大坂なおみが優勝したテニス全米オープンでの、セリーナ・ウィリアムズの猛抗議は記憶に新しい。あれから1ヶ月近くたった現在でも、論争がおさまる様子はない。

「彼女はやりすぎだった、ナオミがかわいそう」
「いやいや彼女の言い分は当然だ、審判は性差別をしていた」

決勝戦をTVで観戦していた私はと言うと、セリーナ・ウィリアムズはやりすぎだと感じた。
元はと言えば、彼女のコーチのコーチングと疑わしき行動(コーチは認めている)が原因であるし、過剰反応してラケットを叩きつけて破壊した行為に対して審判が彼女を注意したのは当然で、それに対して「性差別だ、謝れ」というのはお門違いだと思った。

セリーナ・ウィリアムズは、何にそんなに腹を立てているのだろうと。
最初は大坂なおみのペースになっている試合の流れを変えるために戦略的に抗議をしているのかと思ったら、どうやら本気で怒っている。
もちろん20歳の若手に打ち負けているフラストレーションもあっただろうが、審判に再三「謝れ!」というほどでもない。
どうしても理解をすることができなかった。

そんな出来事を考える上で必見の映画を観た。

第90回(対象2017年公開作品)アカデミー賞外国語映画賞にレバノン代表作として出品され、ノミネートを果たした

『判決、ふたつの希望(英語題:The Insult)』である。

レバノン映画というと馴染みがなく、やはり調べてみると、レバノンで作られる映画は年間7本程度らしい。
だた監督のジアド・ドゥエイリは、アメリカへ留学しサンディエゴ州立大学で映画学位を取得。卒業後、ロサンゼルスでクエンティン・タランティーノ監督のカメラアシスタント務めるなど、しっかりと経験を積んできた人物だ。

《あらすじ》
レバノンの首都ベイルートで、パレスチナ人のヤーセル(カメル・エル=バシャ)は、住宅の補修工事を行っていた。その工事現場の近隣に住んでいるトニー(アデル・カラム)は、ベランダで植木に水をかけている際、その水がヤーセルにかかってしまい、そこから口論になってしまう。その後、二人は互いに和解しようとしたが、話は決裂、トニーは「侮辱され、精神的なショックを受け、妻は早産になってしまった」という理由でヤーセルを訴え、裁判にまで発展してしまう。2人の裁判は、マスコミに大きく取り上げられ、やがて国を二分する論争にまで発展する…。

予告はこちら⇒https://www.youtube.com/watch?v=GrTlVv2YMlQ

口論や話の決裂の様子を見ていても、自分は「そんなカッカしなくてもいいのに…」「そこで折れておきなよ…」など感じてしまうシーンばかり。
ヤーセルもトニーも譲らない。

ただ、2人とも相手を苦しめたいわけではない。

ヤーセルは「たんまりお金をとってやりましょう」という弁護士に対して「いやそこまでせんでも…」という反応を示す。
トニーも同じく「たんまりお金をとってやりましょう」という弁護士に対して「いや俺は誤って欲しいだけや。お金なんていらんねん」と言う。
彼らは根っからの悪人ではない。普通の善良な住民である。

ではなぜ彼らは相手に対して妥協することができなかったのか。

それは、彼らが負っている「傷」のせいである。

パレスチナ人のヤーセルは、難民としてレバノンに滞在し不法就労している。右派レバノン人からの風あたりが強く肩身が狭い思いをしている。
レバノン人のトニーは、過去のとある大事件がきっかけでパレスチナ人に不信感を持ち、右派政治家を支持している。

2人の負った「傷」をつけたのが、お互いのメタ的なアイデンティティであり、意識的に、無意識的にも、感情的な抵抗感を感じてしまう。
だから折れることができない。

トニーの水がかかった相手が隣人のレバノン人だったら、「あーごめん!今度飯奢るよ」で終わっていたかもしれない。
ヤーセルがトニーからではなく同僚のパレスチナ人から侮辱されたのだったら、1日夜開けた翌日、お互いに「昨日はごめん、今日も仕事頑張ろう」で住んでいたかもしれない。

「もっと寛容になろうよ」と言うのは簡単だ。
大層なことを言うつもりはないし偉そうなことも言えないが、ぶつかり合いが耐えることのない世界の惨状について自分はそう思っているところがある。

ただ本作を鑑賞して、ヤーセルとトニーが苦しむ姿を見て、コトはそう簡単ではないことを実感した。

たまたま自分は日本という民族の対立や宗教、政治の対立が少ない国に生まれ、平和な生活を送っている。
だから「もっと寛容になろうよ」と簡単に言ってしまう。

それがヤーセルやトニーの立場だったとしたらどうだろうか。
傷を負っている箇所を抉ってくる存在が近くにいたとして、寛容になれるだろうか。

トニーの弁護士であるワジュディー・ワハビーが終盤、法廷こう話す。

「誰もが傷を負っているのです。誰もが。」

ヤーセルとトニーは法廷ではない場で若いするのだが、「お互い傷を負っている」という立場を理解し、三人称ではなく二人称としての相手を理解しようとしたからだ。

本作の舞台はレバノンだが、どこの論争や衝突にも通ずる考え方を提示してくれる。

相手という人の立場や考え方を考慮せずに、バカの一つ覚えのように「寛容でいようよ」と主張するのは間違っていることだとわかった。
「パレスチナ人だから悪いやつ」と考えるのと一緒である。考えが凝り固まっていて、自分と向き合う”その人”と向き合っていない。

「まず”相手”を知る」

考えるのはそれからだ。


100%悪いと思っていたセリーナ・ウィリアムズに対しての考え方も変わった。彼女は確かに今回やりすぎたが、その立場も理解し、支持できる場面では支持をしたい。

アメリカ社会の中で、女性で、黒人で、スターダムに上り詰めた彼女の苦労は計り知れない。そう簡単に彼女の行為に対して「いやそんなに怒るなよ、あなたが100%悪い、寛容になろうよ」とは言えない。
彼女の人生がどのようなもので、どんな考えなのかを知らないのだから。


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