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【琴爪の一筆】#4『現代思想入門』千葉雅也④
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同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと思うのです。
講談社現代新書 2022-03
p140より引用
私の世代である「団塊ジュニア」が生きてきたその時々の環境では、このような強迫観念が今よりも濃く充満していたように思います。
かくいう私も漠然とした不安があったのか、難易度の高い国家資格を取るという志を持った時期がありました。しかし「人は持ったものに縛られる」という、いつどこで拾ってきたのかもわからない一見陳腐、さりとて名言とも取れる言葉をいたく気に入っており(今でもそうだと思います)、ふとある時「資格という無形のものですら、取得したら自分を縛ることになるのでは?」という、盛大な皮算用を前提にした概念の広がりを見たため、白けてしまいました。
労働者階級人生を歩む人間に対して、様々な切り口で煽りを入れる「備えあれば憂いなし」という通念。その人生初期での実践規範ともいえる「手に職」を志したわけですが、予想だにしない哲学的な方向で備えたために、資格取得に憂いを感じるという、なんとも滑稽な顛末となったわけです。
このような自分の成り立ちの一部を、まことしやかな因果でこってり塗り固めて語ることもできるのでしょうが、「たまたまこんな人間だった」と考える方が、外連味(「けれんみ」と読むのだよ)がなくて清々しいですよね。言い換えるならば、嘘くさい下手なドラマでうりうりと自分の成り立ちを編みあげるよりも、忘れかけていた昔好きだったことを、シンプルに過去の事実としてなぞってみる方が、よほど自分の成り立ち、さらには「なしうるもの」が見えるのではないでしょうか。
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