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【琴爪の一筆】#3『現代思想入門』千葉雅也③
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能動性と受動性が互いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある。
講談社現代新書 2022-03
p29より引用
確かに。私自身はどちらかと言うと能動タイプ寄りな節があるので、他人から能動性が求められることが少ない分「自分で考え、決めたことじゃなきゃ何をするにも楽しくないんじゃない?」って考えがちな人間であることにまず気づきます。自分の立ち位置の認識ですね。
さらに省みると、あからさまな強制力をともなった「命令」には相当な拒絶反応を示すものの、そこまではいかずとも、他人の指示、もしくは指示とすら感じない誘導にもとづく行動をとる時、この無責任さ、気楽さから来る愉悦を存分に楽しんでいる事実に気づきます。既定路線に乗って進むことって、意外と楽しい。
例えばの話。近年主流となりつつあるようなオープンワールドRPGあたりも、自由度の高さを売りにしているタイトルは一見魅力的に映る。でもいざトライしてみると、何かの都合で数日プレイできなかった程度で再び世界に降り立った時には、すでに何をしたらいいか本当にわからなくなる。これは地味にストレスなんですよね。なので、ストーリーテラーやガイドがいることの楽しみというのは確かに認めるべきだと思うのです。
大枠での受動と、その枠内での能動。それが現代人のリアリティなんだろうなと解釈しています。パッケージツアーにおける自由行動時間みたいなものでしょうか。私にとっては「ゼルダの伝説」あたりがちょうどいい受動能動バランスかなと。
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