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田舎日記2020-05-04「創作者のスタンス」

①田舎生活四日目

 田舎生活四日目。母が実家に帰った。遂にチュートリアルが終了したと云える。先日は10時半に起きたが、今日は11時半に起床した。寝起きに母から質問責め(主に仕分けのこと)を受けたせいで中々に目覚めは悪かった。それに気圧もよくない気がする。よって今日は調子が悪い。居間でこの日記を書いている間、外からはお爺さんお婆さんの喋り声、それに木を切るキコキコ音のようなものが聞こえる。

 先日のシチューのあまりとパンを朝食にいただき、あとは牛乳とヨーグルトを1:1で混ぜたもので済ませる。牛乳はおいしくて健康な体づくりには欠かせないが一般的にお腹によいとは云えない。しかしヨーグルトは整腸作用がある。その二つを組み合わせることで生まれた知的飲料がコレである。

 FGOの新聞ジャック、静岡新聞が北斎ちゃんだと知って絶望。静岡新聞の通販でも在庫切れでさらに絶望。


②パンとシチュー、あなたはどう食べるか?

 目の前にパンとシチューがある。シチューにパンをつけて食べるヤツは恥を知れ。この一言で傷ついた読者諸君、これはきわめて常識的な罵倒である。まず僕は「パンをシチューにつける」という行為の心なさに疑問を呈する。そんなことをしたら、カリカリに焼けたパンの表面の小さな欠片がシチューのなかに浮くじゃあないか。そうすれば見た目が悪くなり食卓の平穏が脅かされる。お前の心が汚れてるのはそういった不協和が原因だといつになれば気がつくんだ。

 僕はシチューをパンに塗る。バターのように。これは美しい。一気に全面に塗っちゃあダメだ。高さ1ミリから2ミリの誤差範囲で自分が齧る部分にだけシチューを塗る。齧る。また塗る。また齧る。これの繰り返しを至高のループと僕は名付けている。実に調和のとれたルーティンだ。素晴らしい。シチューにつけて食うヤツと比べものにならないエレガンスな食べ方だ。つけて食べると毎回シチューとパンの比率が不規則になる。無論、君がそういった無作為性をあえて楽しむ人であれば話は別だが、とにかく一度この食べ方を実戦してみてほしい。


③創作者のスタンス

 昨夜は3時ごろまでメガスカルプチャの discord に参加していた。主催のARATAさんは文字だけの参加であることを事前に知っていたので、いつもの仕返しに一発だけ煽り発言をかましてしまったが、よくよく考えればあの人は私の弱みをすべて握っているので後が怖くて仕方がない。ARATAさんのテキスト参加の理由に関しては、彼が退室したあとに議論が交わされたが、真相は藪の中である。サピエンスさんに「RWBY」を勧めておいた。イケメンの存在を問われたが、あの作品はジョーイというイケメンが男を見せ始めてから沼に沈み始める(少なくとも私はそうだった / 特に二期)ので、心配はいらないだろう。

 ところで、名前は伏せるが参加者のなかにイラストレーターの方(仮にAさんと呼ぼう)がいたので、今後その業界の人々に接するにあたり活用できそうな様々な質問をさせて頂いた。「skebは依頼料金の参考になるのか」「指示書の書き方はシンプルなほうがよいのか」「個人のクライアントの信用を計る物差し」などなど。そういったことは個人のスタンスによる、というありがちな返答をされるかと内心は思っていたのだが、そうではなかった。質問に対する返答自体は概ね予想通りのものだったが、それに付随するかたちで話して頂いた個人的な価値観や見解、業界に対する意見などは貴重であり、自分の想像の域を超えたもの(絵を描いて暮らす人からの目線でしか語れないモノ)だった。


④イラストレーターの呪い

 話の流れで「バズって有名になるタイプとジワジワと伸びていくタイプ」について語られた。これは自分にとって重要な話に繋がった。結果をまず話すと、この会話によって五年間の悩み、というよりも呪いが解消された。

 過去に組んでいたあるイラストレーター(Bさんと呼ぶ)とのやりとりのなかで、私には「RTの多さ」「フォロワーの多さ」そういったものを重視することが今の時代に沿ったやり方である、重んじるべきものだと自分に云い聞かせて来た。これは本来、自分の考えとは相反するものである。少なくとも僕は今でも世の中に対する明確な訴えを持った京田辺警察官殺害事件に対して作品を書き続けているし、どの作家にも「訴えるべきもの」を書くべきだと思っている。その訴えを表現するなかで、SNSでの「バズる手法」だとか「人気のジャンル」と融け合うのは難しい。そんなものに迎合していくなかで、自分が過去に感じたことを嘘にしていくのは間違っていると思っている。

 だが僕と組んでいたBさんは、バズやRTを利用することで名を馳せていったし、そうして仕事を貰い、技術を高めて行った。それがBさんにとって相応しいやり方であり、正しい選択だった。それに訴えたいものを描いて食っていければそれに越したことはないと誰よりも痛感していたのは彼自身。よって、これはBさんにとっては呪いでも何でもない。超えた壁の話である。

 だが5年間。僕は僕はで、自分の作品を評価されたことはなかった。見ず知らずの誰かに「自然発生的な感想」を云われたこともなければ、自分の書いている物語をすべて読まれたという経験もない。僕と組んでいた彼は、五年間毎月頼む仕事のなかで僕の原稿を一度しか読まなかった。

 だれにも読まれなかったおかげで、僕は自分の文章に込めた工夫や情緒が本当に機能しているかわからなくなった。流行りの書き方やジャンルに転べば、もしかしたら貰えていたかもしれない。感想をもらうだけならそうだろう。読まれるだけなら、そうだろう。

 しかし僕はずうっと、「この書き方に対するアンサー」が欲しかった。誰にも読まれないことでその答えが置き去りにされ、僕は小説を書かなくなった。その五年間、友人であるイラストレーターが着々と実績を重ねていく=彼のやり方が正解であると証明され続け、自分もそれに同調していった。

 これはBさんとのやりとりのなかで育まれた呪いである。

 僕はずっとこれを否定して欲しかった。先輩のARATAさんは「そうじゃない」と云い続けたし、僕もARATAさんは昔からそうではないことを知っていた。しかし、この呪いはイラストレーターから授かったものなので、イラストレーターにしか解けないものだった。少なくともあの友人と同じくらいのフォロワーがいて、それ以上に実力があり、技術的にも生活的にも、そして人間性も確かなイラストレーターからの、生の声が必要だった。

 そこで昨晩のイラストレーターAさんの話になる。AさんはBさんとフォロワーやバズった回数はトントンくらいだが、その意見は真逆で「バズって有名になることは呪いに近い」と例えていた。それを聞く僕の心を解呪したのもまた彼の言葉であった。

 Aさんはそれらの呪いと例えたあとに「バズを狙うでなく自分が信じるものを描いていたい」「その上で様々なものを描いて実力もつける」「そうしてジワジワとフォロワーが増えて行くほうが健康的だ」という旨の言葉で締めくくった。一部ぼやけた表現で綴ったが、概ねはこのような内容の解呪だった。

 僕は自分が信じられるもの、信じられる表現で一切振り向かれなかった人間だが、どうしてもこれを変えたくなかった。だから、極力、自分を変えないやり方で「成人向け作品」を作るという方向に舵を切った。恐らく購入されるきっかけは、今仕事をお願いしているやどのーち先生の絵の魅力に依るものが大きいだろう。それでも、おかげで今は文章の感想も貰えている。僕が発表した「MMMヴィランズ」という成人向け作品のモチーフの一部はそのように「堕ち続けた僕の経緯」を作品のなかに染み込ませたものだ。そして、あの作品では堕ちることを肯定している。

 CG集を作りながら、「攻殻機動隊VS虐殺器官」の執筆を開始する。僕の疑問と、僕の文章に圧倒的に足りていないものを書くためだ。つまり習作でもあるが、本気で向かい合わなければいけない作品を選んだつもりだ。これが書き上がるころには、僕は恐らく、自分の小説にもう一度向かい合うことができるだろう。

 これが僕のやり方だ。僕は成人向け作品で自分のモチベーションを上げ、二次創作で自分の技術を磨き、オリジナルですべてが正しかったことを証明する。

 バズを狙ったり、読まれないと泣きごとを云って同情を引くような真似はしない。長い旅になるが、最後に勝つのは僕だ。

 この記事を、僕はBに宛てて書いている。もっとも、彼は僕の文章を読むことはないだろうが。

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