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言葉に触れて、心に触れる。


言葉の持つ力。


初めて海外に降り立った20歳の夏に受けた衝撃。
当たり前が通じない世界。
辺りを見渡すほどに、自分が異国の地に立っていることが身を以て感じ、
言語という自己表現ツールをうまく使いこなせないまま、
生まれ育った環境が全く異なる人たちと交流を図る。

それから2年間を海外で過ごして、更に感じた、
「言語にはツール以上の力が秘められている」ということ。

しかし、その感覚も、就職活動という現代社会のフィルターを通せば、
あくまでも「ツール」でしかない。

今、自分は、日本語と英語をほとんど不自由なく話すことが出来ていて、
これらに加えて、中国語も学んでいる。しかしまだまだ道半ば。
コミュニケーションは取れない。学ぶだけで精一杯な日々。

言語勉強は好きだが、そうは言っても、たまに疲れる。
そうゆう時は、英語に触れる。英語で外国のドラマを観たり、本を読んだり。
今や、僕にとっての英語は、癒しになっている。

いや、癒しというよりも、
休憩時間と称しながらも、海外ドラマを観て、英語を勉強している自分に、「罪悪感を感じにくい、満足感で満たされている」のだろうな。

何はともあれ、
最近も「言語とは何か」をずっと考えていて、今日ふと思ったのは、
「言語は、やはりツール以上に何かがある。」ということと、「それは、人との関わりを増やし、相手のことをよりよく知り、自分の見ている世界を広げてくれるもの」だということだ。

これらは言われてみれば、当たり前のことなのだが、
僕が、何故わざわざこれを書いたのかというと、
上記を理解しながらも、言語学習意欲があるということは、
「自分は、人や世界に興味がある」ということを裏付けてくれているからだ。

僕は基本、人には無関心だし、歴史とか、旅行とかも興味がない。
「何に興味があるのか分からない」と最近まで悩んでいたぐらい。

でも、言葉に触れることで、
相手の心に触れることができる。
そこに実は、喜びを感じていた。
という事実は、自分にとって大きな気づきだと思う。

いや、そうは言っても、
相手を理解することに興味があるというよりは、
相手のことを理解できている自分に興味があるのだと、
これを書きながら気付いた。笑

そうか、他人に興味があると見せかけて、
結局は自分にしか興味がないのか。

こうやって、自分の思いを書き連ねていったから、
たどり着いた気付きだ。しかもこの意見は自分の心にストンと落ちる。

何れにせよ、言語を学ぶことで、相手のことをよりよく理解することができ、
より多くの情報に触れることができるようにもなる。
どれだけ動機が不純であろうが、最終的に、相手のためになっているのなら、なんだっていいだろう。

中国語を勉強し始めて、自分の日本語力と英語力が確実に落ちていることが分かった。言葉は使わなければ、衰えていく。

あくまでも私見だが、「言葉というのは、感覚と同じで、自己表現するには必要不可欠なものである。」しかし、上記で述べたように、言葉は使わないと衰えていく。言葉が衰えると、感覚も衰える。感覚が衰えると、コミュニケーションがうまく取れなくなったり、思考が鈍る。

つまりは、自分の成長には、言葉の力が必要というわけ。
中国語に限らず、日本語も、英語も。毎日少しずつでいいから、各々の感覚を鳥も出していきたい、そう思った日でした。

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