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選択という神話

「自分で選んだんだ」って思ってることでも、慣れや不満によって
「やらされている」という感覚が強くなる。
選んだことなんだから、不満言わずにやれよとかそういうことではなく、
選んだんだから、その場ではそのときできる最高のパフォーマンスをしたいと思う。
仕事とか特にね。

とはいえ、自分で選べないことも山ほどある。
対人関係や体調などは自分で選択するというよりも、偶然の重なり合い。
自分で選び取った感覚がないから、どうしても納得がいかないような気になってしまうことがある。

手に入りそうにない愛を求めて、いま注いでくれる愛を無碍にする。
安心感がほしい癖に、安心だけじゃ物足りなくなって
自分を傷つける人に、わざわざ体当たりしに行く。
どれだけ待っても来ないのに、いつまでも過去に執着する。
「もっと~だったら」って、そんなことを言ってしまう。
偶然が重なり合ったけれど、自分が選んだはずのこと。
納得いっていないことに、納得がいかない。


たまにはこんな気分もいいじゃん。いいんだよ。仕方がない。
そのくらい許せ。

確立の低い未来を描いて宙ぶらりんにされたまま、あと何日泣けばいい。
恨み言がまだまだ頭にある自分が憎い。
なぜ静かに愛を抱いたまま待たなくてはいけない?
私が傷つけられたのに、なぜあなたの痛みを優先しなければならない?
「幸せになってね」と心から思えないのは、まだ私があなたを許していないからだよ。
きっともうそんなことはないのに、私の不在を嘆いていてほしいんだよ。
私はまだ恨み言を頭に浮かべたままで、
今、私を愛してくれる人の愛し方がわからない。

楽しかった日、私が笑顔だった日、私が一番かわいかった日。
あなたがレンズ越しに見た私が、やっぱり一番かわいかったよ。
そんな日々が、今を生きてる私と地続きなのがイヤ。
断絶できれば、切り取って飾っておけたらいいのに。


自分で選んだっていうのは強がりなのか。
私だって、ただ馬鹿みたいに笑っていたかった。
刹那的な遊び方して、その場限りの快楽で熟考を捨てて、
自分を優先して嘘をつくあなたが、憎くて、でも羨ましかった。
私はきっと、明日のことなんてどうでもいいって放り出したかったんだ。
「いやだできない」ってうじうじしていたかった。
怒って、泣いて、全部投げ捨てて、かわいい私を選びたかった。

どうして、ちゃんときちんとしっかりしてしまう私になってしまうの。
そしてきっと、ちゃんときちんとしっかりを人に押し付ける私になってしまう。
なりたくないはずのなにかに、なりかけていたことが辛かった。
今ね、「ちゃんとしっかりしなくては」っていう人が隣にいるから、私はなんだかとってもアヴァンギャルドな気分になってみたりして。
それでもなんでかな、さみしいんだよ。

ちゃんとしなきゃ手を繋いでいられないって焦ったのに
ちゃんとしてもしなくて離れ離れで。
どうやったってうまくいかないこともあるんだって、少し大人になってしまったのかな。
タイミング?運?そんな不確かなもののせいで
選択ができないことが、ずっとずっと悔しい。


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