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人それぞれ。

書かなくてはいけないものがあるとき、なぜだか別のものが無性に書きたくなるんじゃ。
テスト勉強しなきゃいけないのに、小説読むみたいな、そういう感じ。
我慢するものでもないだろう、ということで欲望のままに。

先日、私にフランス語の扉を開いてくれた大切な友人と水族館へ行った。
その場所には、別の人やひとりでよく足を運んでいたけれど、今回彼女と行ったことで初めて見えた景色がいくつもあった。
(彼女がたまに水槽の中の生物に話しかけていたの、可愛かった。)

同じ場所であっても一緒に行く人によって見える世界が全然違う。
同じ作品であっても見る人によって解釈や注目ポイントが異なる。
そんな当たり前のことに、私はなんだかうれしくなってしまう。

「良い」芸術作品は、多様な解釈に耐えうるにもかかわらず、誤読が少ない。
ということで、映画『君たちはどう生きるか』を例に挙げてみよう。

妹は、開始三秒で泣き始め、鑑賞後は、独自のキリコさん解釈と、名作ファンタジーとの関連を指摘した。
ある友人は、監督の怪物的な仕事に恐れおののいていた。
友人のお姉さまは、夏子が産屋に籠るシーンに共鳴し、私の父はサギ男に自分を重ねていた。
かくいう私は、仕事柄致命的ではあるが、自分の感想や気持ちを言語化するのが苦手である。
だからこそ、いつもみんなの言葉に「すげー!」と作品同様に感動する。
みんなの素直な言葉が、私はとても好きだ。
私は、人の話を聞くのが好きなのかもしれない。
それが例え、悲しみや怒り、愚痴であっても、「もっと聞かせて」と思う。
ここ数年で、いつの間にかこう思うようになった。

もともと私は肩に力が入りやすく、放っておくと思考が凝り固まりがち。
摂食障害真っ只中のときには、その境地にまで到達した。
無駄だ!と思うものは、体内にも入れなかったし、雑念だ!と判断する文字や音や映像は視界にも入れなかった。
そのこと自体を否定するわけではないし、当時の私が何か間違っていたわけでもない。
そのようなあり方によってしか到達できないことがあるのだから。
今は、そうではなく、なにやら様々な視点を知りたい時期のようだ。
根っこや芯は変わらないけど、人のスタンスって結構変化する。
体調や天気で表面上の言動って変わるもんね。
どれが良いとか悪いとかではなく、そういった変化も面白がるくらい余裕があるのが理想…。

先ほど、みんなの話が好きだ!と全方面に謎の愛を叫んでしまったが、同時に、自分の話せなさにがっかりしてしまうこともある。
書くのは平気なのに、話せない。当たり障りのない浅い言葉しか出てこない。
もはや大して悩んではいないけれど、話す場が増えてきたらどうするつもりなのでしょうか…(他人事)。

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