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読書百冊 第21冊 E・カントロヴィッチ『祖国のために死ぬということ』 みすず書房

大著『王の二つの身体』の著者として、西洋政治思想史と国制史の両面に多大な影響を及ぼした碩学カントロヴィッチの思考のエッセンスを凝縮させた論文選。

支配者個人のカリスマ性により創出される政治的結合が、こうしたカリスマ性の象徴主義的操作としての典礼に基づく儀礼国家へと、そしてついには国家機関とそれを動かす法制に依拠する永続性を有する集権国家へと進化して行く過程が、キリストの身体としての教会論の転用としての、国家機関の「王の(第二の)身体」化という観念を軸に、歴史的に跡付けられている。

 従来『君主論』に凝縮されるマキアヴェッリの政治観の核心は、自己中心的本能に忠実な自然主義的人間を、武力の独占を担保とする恐怖を介して統御する点に求められてきた。だがこうした見解は適切なものなのだろうか。もちろん彼には『ディスコルスィ』といういま一つの著作がある。そこ主題はむしろ、国祖により定礎された国制と法による支配の維持継続におかれている。国制と法のかかる維持継続の鍵となる存在こそ、私利を捨て公共のため挺身する、徳性溢れる市民に他ならない。だが『君主論』における新君主国創出の前提に措定された利己主義的臣民の、『ディスコルスィ』の世界を支える利他主義的市民への転換は、マキアヴェッリの思想においていかにして可能となるであろうか。

 わが国を代表するマキアヴェッリ研究者佐々木毅が、マキアヴェッリの議論の破綻点とすら断じるそうした解釈上の難所を、整合的に読解するためにも、彼に先立つ諸論者により「祖国のために死ぬこと」が、古代倫理の伝統以上に、「キリストの身体としての教会」論に裏打ちされた殉教の称揚の、世俗的読み替えとして受容されてきた経緯を了解しておく必要がある。それはさらに掘り下げれば、自己の本能的欲求の充足衝動としてのエロスが、逆説的にも至高の快楽の代償として死を自ら希求するタナトスへと逆転するという、フロイト主義的欲望観ともつながるものと言えよう。

立法者が神与の霊感を通じて、混沌たる素材としての民に法と国制を刻印する。それはカントロヴィッチが本書中の論考「芸術家の王権」に語る通り、芸術家の創造行為に、さらに言えば神の世界創造行為に類比し得る、至高の行為に他ならない。平時に我々は自分たちの生活が、法の規制に自身の超越性を奉献することにより、法の効力を担保している立法者の自己犠牲を通じて、自身の日々の生活が支えられていることに気づかない。だが従来享受してきた法と国制が、危機にさらされるとき我々は、法の授与者である神や、その代行者である立法者ないしは予言者の、超越的かつ絶対的な「法制定権力」と、法の効力の裂け目において直面する。そして神の代理人(立法者=預言者)は、彼ら自身やその代替者を奉献物として、その度毎に「新たな盟約」を交わすことにより、衰弱した法を更新し続けていくのである。この政治権力創出の根源にある誓約行為こそが、利己的な我々人間の神への没入としての、タナトスの活性化を起動させる装置なのである。

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