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読書百冊 第28冊 吉田修一 『パーク・ライフ』

    古書店の100円コーナーを漁って「見どころのある」本を見つけることが、道楽の一つである。そうやって見つけた本の一冊が本書。何か雰囲気があり、直観に促されるままに購入。著者の吉田修一氏が芥川賞作家で、本書所収の同名作品がまさに芥川賞受賞作であることを後で知った。ただこの作品をどのように批評してよいかわからない。だがなんとなく面白い。その自分にとっての「なんとなく」が何なのか、少し考えてみよう。


 「モナドには窓がない」というライプニッツの有名な言葉がある。世界の散在するあらゆる個体はその深層において、相互に共鳴し合っており、そのことが調和世界の成立の根拠になっているが、他方それぞれの表面は他を浸透させず、ただ外側に存在するものを映し出しているだけである。人間もそうだ。モナドとしての他者と、自己の内部(深層意識と言ってもいいかもしれない)のどこかで共鳴し合いながら、その他者と意識のレベルでは分かり合えず、他人を自分の心の表面にかりそめに映し出しているだけだ。だからこの世の中で人と人は出会いながら、どこかですれ違って行ってしまう。でもそのすれ違っている宙づりの状態は、時には不快でありながらも時には心地よいものとなる。


 本書所収の二つの中編「パーク・ライフ」と「Flower」における主人公と、その対役となる「女」や「望月元旦」との関係もまさにそのようなもののように思える。それだけではない。「パーク・ライフ」における主人公と、わき役である宇田川夫妻(さらにはこの夫妻相互)の関係や、「Flower」における主人公と妻の鞠子や同僚の永井さんとの関係―そのどれもが、互いの表面をつるつる滑っていくようで、つかまえ所がない。「パーク・ライフ」に執拗に登場する、人体模型やレオナルドの人体解剖図への言及は、そうした人間の内側と外側の不可侵性と侵食性の二重性の象徴のような気がするし、「Flower」に頻繁に現れる生け花のシーンは逆に、そういうすれ違い続けるものが、表面的に調和する一瞬の暗示であるかのようにも思える。


 繰り返しになるがこうしたすれ違いが度を越えれば、そこには苦いものや吐き気がしそうなものもこみ上げてくる、だがそれが近づきそうで近づかない微妙な距離感であり続ける限り、宙づり館は心地よい浮遊感覚となる。そうした感覚はまさに、都会独特の施設である公園(パーク)においてこそ育まれるものかもしれない。ある空間の中で見も知らぬ「窓のない」モナドとしての人間どうしが、何の脈略もなく出会い、互いを一瞬映し合い、また何の脈絡もなく離散していく。人間関係の濃密な網の目にからめとられた田舎ではありえないことだし、都会にいても本当に閉塞してしまっている人には、そうした一期一会は気が付かれないままに終わってしまうだろう。コロナ下の「新しい生活様式」によって失われてしまった、こうした雑踏の中の浮遊感覚の「軽さ」こそが、都会に生きることの愉しさであり悲しみなのだと思う。

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