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読書百冊 第31冊 K・ブールダッハ『宗教改革・ルネサンス・人文主義』創文社

 以前にも書いたとおり、私に大きな影響を与え、イタリア・ルネサンス研究にみちびいてくれた書籍の一つ。恐らくこれに続いて紹介するであろう、エリアーデが『永遠回帰の神話』に語るように、四季の巡りに伴う植物の発芽・成長・衰退・死滅・再生のサイクルや、月の満ち欠けを下敷きに、始原の時代以来我々人類は、自己の死の克服=再生を目指して、精神的たると物質的たるとを問わず、様々の努力を重ねてきた。宗教そのものが、そうした人間の根源的努力の凝縮されたものと言えるだろう。だが西洋文明の根源におるキリスト教は、そうした自然の生と死の反復のプロセスを、歴史の次元ではアダムの知恵の実の咀嚼による死への墜落と、イエスの復活による生命の回復あるいは、イエス自身の十字架上の死と三日後の復活という一回起的事件へと変形することにより、個々人の死と再生自体を各自の自覚的決断による行為へとつくりかえたところに、その独自性を有している。


 こうしたキリスト教固有の生と死の個人化を集大成した思想家こそパウロに他ならないが、パウロ的キリスト教の受容以来のヨーロッパ精神史は、16世紀のイタリア・ルネサンス出現に至るまで、こうした思想に刺激されつつ、幾度とない自己の始原への復帰=精神的蘇りとしてのルネサンス運動に支配され続けてきた。イタリア・ルネサンスも、またカロリング・ルネサンスも、12盛期ルネサンスも、決して単なる外在的な古代文明の再発見を原動力とするのではなく、中世ヨーロッパ社会におけるこのパウロ的キリスト教に由来する精神性の成熟という、内在的運動にその始原を有するものだという観点こそ、ブールダッハのこの書の核心をなす主張に他ならない。


 そうした精神的な死と再生のパウロ的精神は、アウグスティヌスから聖フランチェスコ、ダンテという系譜を経てペトラルカに到達する。だがこうした精神の再生と交錯する形で中世において展開した、もう一つの精神史の系譜がある。即ち新約「ヨハネ黙示録」に始まり、中世これを援用し独自の歴史観を樹立したヨアキム・デ・フィオーレを中継に、教会と社会の究極的大変革を予言するコーラ・ディ・リエンツォの政治運動に至る、社会全体の再生運動に他ならない。この二つの潮流は個人の精神的=道徳的再生の帰結としての社会の再生と、社会の政治的再生を背景とした個々人の精神的再生との相互性により展開するものであるが、こうした政治社会の再生の枠組みとなったものこそ、中世キリスト教的ローマ帝国再生への期待に他ならなかった。再生の担い手としてのローマ帝国への期待は、当時の占星術的-魔術的世界観による「時の到来」の観念によりさせなる刺激を受けた。


 それで14世紀後半以降イタリアを起点に始まるいわゆるイタリア・ルネサンスは、中世を通じて反復される無数のルネサンスのワン・オブ・ゼムに過ぎないのであろうか。強調しなければならないのが、イタリア・ルネサンス以前のもろもろのルネサンスが、(終末の世界皇帝と天使教皇の到来による世界のキリスト教的統一の帰結としての黄金時代の回帰という、ヨアキム的世界改革像に代表される)ローマ「帝国」の再生を政治社会的目標に掲げたのに対して、ペトラルカに端を発するイタリア人文主義の提唱者たちが、ダンテに対する敬愛に伺われるようにこうした主張を継承しつつも、「ローマ」帝国の再生へと、その思考の重心を移動させることにより、ルネサンス理念を国民文化的なものの成熟の証へと転換した点にあるとブールダッハは強調する。


 こうした国民文化意識の覚醒は、歴史的文脈から見れば、これまでイタリアの潜在的国民意識の焦点であった教皇庁が、教会大分裂の過程を通じアヴィニョンへと移転したことを刺激として、逆説的に昂進したという彼の主張も首肯に値する。ともあれこうしたローマ「帝国」から「ローマ」帝国への、関心の焦点の移動により「ローマ」そのものの歴史の深堀が試みられた結果、「ローマ」帝国出現となった「ローマ」共和国への関心が励起される中、この両者を支えたローマ人の公民としての〈徳〉への関心が高まっていく。キリスト教信者として人間的に再生した存在は、こうした文脈を介して、社会人としてはローマ的公民精神を回復した存在と同義語になる。かくのごとき観点において本書でブールダッハが注視するコーラ・ディ・リエンツォとその思想は、次の世紀フィレンツェにおいてサルターティやブルーニの指導下に開花し、これまたブールダッハが強調するようにマキアヴェッリにおいてその思想表現の精華に達する、市民的人文主義の人間観を正に先駆けるものとなるのである。だが留意しなければならないことは、こうした古典古代の政治性を豊かに旧私有した市民的人文主義の人間観においても、ヴェルギリウスやホメロスの詩作も、リヴィウスやクセノフォンの史書も、キケロやプラトンの政治哲学も、中世を通じパウロ的蘇りの思想を介して歴史的現実の中で成熟し続けてきた、神と直接に対話する一回起的個人の個人としての自覚(こうした個人がその内面において神と対話するための言語は、ギリシア語やラテン語ではなく各自の民族語である)を強めるための踏み台としての役割を果たすにすぎない。


 その意味で古代文化の復活は、14-15世紀イタリア・ルネサンスにとっても、せいぜい表面的な意味しか持たない。だがこうした古代の思想・文化・芸術が、この時点において個人の自覚と民族文化の形成を加速するのに、他の時代以上に大きな効果を発揮したのはなぜかという点には精緻な考察が必要であろう。本書においてブールダッハは再生(rinascità)、変革(riforma)、革命(rivoltà)という語彙を仲立ちに、これまで言及してきたような聖パウロから聖フランチェスコに至る人間の再生の思想、「ヨハネ黙示録」からフィオーレのヨアキムをへてサヴォナローラに至る社会(国家)と宗教(教会)の革新の思想、ローマ「帝国」から「ローマ」帝国への関心の重心転換に伴う国民意識の勃興という、3つの潮流の古典的人文主義を接着剤とする統合者として、マキアヴェッリの思想の重要性を示唆するが、こうした視点は従来の単なる、合理主義的・実利主義的・現実主義的政治思想の提唱者という、マキアヴェッリ評価に再検討を迫るものとなるだろう。


 そうした専門研究的観点からの評価は横においても、自己存在の蘇りとしてのルネサンスというブールダッハ的観念は、人生の進行とともに「選択」を積み重ねる中で、自己の可能性を時とともに喪失しつつ、不可避の肉体的生命力の減退に直面する我々の生の運命において、死を目途しつつなおもそれぞれの生を豊かでみずみずしいものたらしめる、芸術文化の力を再認識させてくれることにおいて、「ルネサンスという文化理念がなぜ我々にとり格も魅力的なものたり続けているのか」という問いに対する、一つの見事な答えを示してくれるものとなることだろう。

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