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「余白の美」             銀座花伝MAGAZINE Vol.27

#余白の美  #「枯山水」と「椿」 # ボードゲーム #  世阿弥「野守」

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2月は1年で最も冷え込む季節。厳しい季節を潜ったからこそ冴え冴えとした色が空間に映える。そんな彩りをもたらしてくれるのが銀座の「椿」です。椿は「余白の花」と呼ばれることをご存知でしょうか。そこには、日本の美意識が持つ、空間を愛でる、空白に可能性を感じる感性が宿っているようです。

日本文化の象徴とも言える「余白の美」の源流を辿り、余白の持つ深い意味を探る「特集 余白の美」をお届けします。銀座には街に潜む「余白と路地」の物語、椿がもたらす「神話とのつながり」など余白の魅力が満載です。「能のこころ」コーナーでは、世阿弥「野守」に宿る和歌の美しい編集に感動した、観世会定期能における観世流シテ方坂井音隆師の舞台の模様をレポートします。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に人々の力によって生き続けている「美のかけら」を発見していきます。

  

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1 特集 余白の美


・prologues ボードゲーム「枯山水」

日本庭園の作庭に興味があっても、実際に作るなどという体験はそうそうできるものではない。ところが最近「枯山水」庭園造りを体験できるというボードゲームを知人から贈られたので試してみたところ、その世界観と精巧な造りに驚いた。ご存知のように枯山水とは、水を使わずに自然山水の美を凝縮表現した、日本庭園の一様式である。この発想は禅の精神に通じ、主に室町時代後期に発展を遂げて江戸時代から今日に至るまで、優れた庭園が造られてきた。禅寺の方丈前庭に造られた枯山水は、高度な精神性と芸術性を併せ持ち、日本美意識の象徴とも言われている。プレイヤーは禅僧となって、自分のボード上に美しく洗練された枯山水を作ることを目指すのである。

そのゲームの内容は次のようなものだ。

砂に描いた砂紋と石で、この世の業や理、宇宙を石庭の形に表現しその完成度を競うのである。ゲームは4人まで一緒にゲームはできるが、一人でも楽しめる。
たまり場に裏返した状態で重ねられている砂紋や土が描かれたタイル(厚紙製。約5cmⅹ約4cm)を自分の番が来たら引いて来て、先に引いていたボード上に置いたタイルの周囲に、繋がりが想起したものとなるように配置して行くのだ。砂紋の上に石を配置して三尊石(さんぞんせき)などを表現したり、大徳寺や龍安寺の石庭を再現することも可能だ。砂紋や土、石を使い、自分の思う禅の世界を表現できる。枯山水の創始者・夢窓疎石(むそうそせき/諡号(しごう)は夢窓国師)を初め、千利休、雪舟、善阿弥、小堀遠州など名だたる人物たちの〈得失〉もそこに絡む。
自分の思う石庭を表現するためには、「徳」を積むことが重要になる。徳は、行動せず座禅を組んだり、他の禅僧が自分の石庭では繋がりを持てない砂紋を引いて困った時に、それを引き取ったりすると徳を積むことができる。逆に引いてきた砂紋模様を捨てたり、他の禅僧の砂紋を強奪すると徳が下がるといった具合だ。


「徳を積む。石と砂の庭園で、宇宙の真理を表現する力」が試されるのだという。

このゲームが今10代〜の若い人たちに人気だというから驚きだ。


前置きが長くなったが、このゲームを体験してみて気付いたことがある。日本文化とは何か-を問われたときに私は「自然との一体化」の中の「余白の美」と答えるのだが、枯山水には、見事にその双方が一つの空間に結実しているということである。臥石(ふせいし)や立石(たていし)を配置する時、美しい空間(余白)をどう作るかだけに意識は集中しているのだ。
ここでの発見を端緒として、銀座という街にも「余白」なるものを見つけてみたい。


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◆「余白」とは何か?


「余白」は英語でいうと「margin」、あるいは空白の意味からくる「blank」、本の文字のない部分を指すこともある。また、無駄をはぎ取ったという時に使う簡素「simple」という表現 - 例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの言「「シンプル」さは究極の洗練である/Simplicity is the ultimate sophistication.」、あるいはスティーブ・ジョブズがアップルの製品で「Simplicity」を体現して以降、「シンプル」は世界のデザイントレンドの一つになっている - も「余白」とは似て非なると言えよう。

一方、昔から日本人は水墨画や日本庭園など、「余白」を作品の一部として楽しんできた。何も記されていない白い部分は、何もないのではなく、想像することで完成させて楽しむためにあえて創り出してきたという意味合いが大きい。

そもそも「外国にはこの「余白」という考え方が無い」と言われるのはこのためだろう。

日本の「余白美」について大きな見識を示したのは、1950年代の前半、日本デザインコミッティー「グッドデザイン運動」を展開しようと、松屋銀座を拠点に集った亀倉雄策、渡辺力、丹下健三等15人の有志たちであった。国際的な視野で活躍した日本を代表するデザイナー、亀倉雄策の後を引き継いだ原 研哉氏(日本デザインセンター代表)が、次のように述べている。

「白は時に「空白」を意味する。色彩の不在としての白の概念は、そのまま不在性そのものの象徴へと発展する。しかしこの空白は、「無」や「エネルギーの不在」ではなく、むしろ未来に充実した中身が満たされるべき「機前の可能性」として示される場合が多く、そのような白の運用はコミュニケーションに強い力を生み出す。空っぽの器には何も入っていないが、これを無価値と見ず、何かが入る「予兆」と見立てる創造性がエンプティネスに力を与える。このような「空白」あるいは「エンプティネス」のコミュニケーションにおける力と、白は強く結びついている。」
                         『白』原研哉より。

この書物で、「白」という概念を、色ではなく日本の感覚資源として読み直していく原研哉氏の著作は、英語や中国語をはじめとして、世界各国の言語に翻訳されており、国内外のデザイナーの必読書となっている。


「余白」という言葉を生み出したと言われる日本美術史学者・高階秀爾氏は、平安時代の人びとから現代の私たちにまで通じる日本的想像力を、西洋のそれと較べて解き明かしている。著書『日本人にとって美しさとは何か』からその一部をご紹介する。


「この「余白」という言葉は、英語やフランス語には訳しにくい。西洋の油絵では、風景画でも静物画でも、画面は隅々まで塗られるのが本来であり、何も描かれていない部分があるとすれば、それは単に未完成に過ぎないからである。だが例えば長谷川等伯の《松林図》においては、強い筆づかいの濃墨の松や靄のなかに消えて行くような薄墨の松がつくり出す樹木の群のあいだに、何もない空間が置かれることによって画面に神秘的な奥行きが生じ、空間自体にも幽遠な雰囲気が漂う。また、大徳寺の方丈に探幽が描いた《山水図》では、何もない広々とした余白の空間が、あたかも画面の主役であるかのように見る者に迫って来る。 もともと余計なもの、二義的なものを一切排除するというのは、日本の美意識の一つの大きな特色である」

「利休と秀吉をめぐる朝顔」のエピソードや京都御所の「紫宸殿の庭」、「伊勢神宮」の式年造替(遷宮)が始まった紀元七世紀後半の建物の原型、あるいは大陸からもたらされた仏教が一世紀以上の歴史を経て定着しながら多彩な仏教寺院建築を創り出していることを例として挙げながら、日本人は敢えて古い、簡素な様式を選び取り、しかもそれを千三百年以上にわたって保ち続けたことを解き明かしている。そこには、余計なものを拒否するという美意識 ―信仰と深く結びついた美意識― が一貫して流れているのだ、と述べている。


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◆銀座に見つける「余白」の風景

連想類語辞典(日本語シソーラス)なるものを紐解くと、実に面白い「余白」が出てくる。

シソーラスとは、あるテーマに沿って編纂した独自辞典のことを指す。「余白」をキーワードに連想される言葉を編纂したその辞典には、次のような言語の広がりが並ぶ。

余白:ある数量より多くて余る(多すぎる)を意味する

余りある、あふれる(ほど)(の情熱)、余力がある、余韻(を残す)、去らない、遊び、(影響を)後に残す、余香 、消えない、残り香、(能力の)伸びしろ(が大きい)、自由度(が高い)、(マイナス面を差し引いても)お釣りがくる(ほどの魅力)・・・

そこには、「余白」の「白」=何もない色という概念がほとんど消えて、「余」がもたらす「可能性」が余すところなく集められている。
そんな可能性を余白に求めながら、銀座の物語を紐解いてみよう。


・記憶と進化の象徴 銀座の路地

日本文化にとって「余白」こそが主役だとすれば、まさに街の余白と言えるのは、「路地」である。その空間に一歩足を踏み入れると、この先に何が待っているんだろう、という未知の世界に感じるワクワク感が待っている。それは言い換えれば、遊びと自由度の高さと、伸びしろの大きさ、あふれるほどの商人・職人たちの情熱が充満している空間といえそうだ。路地は銀座の街の魅力を語る上で欠かせない場所なのだ。

江戸時代からの街の形が近代化する中で、銀座中央通り、並木通りを中心に区画の本筋を残しながら、路地の存在によってそこに新しい活力ある街の風景を創り出し変化してきたのが銀座である。
この街を上空から眺めてみると、ほぼ真四角の街区が整然と銀座1丁目から8丁目までほぼ一キロに渡って並んでいることが分かる。おおよそ400年前の考古学発掘のような感動を持って、区画をくっきり見てとることができるのだ。さらにそこに生活道路を張り巡らせることによって、血流を通し生き生きと街を変化させてきたのだと実感できるのが路地の存在である。

路地が余白だとすれば、まさにそこから「可能性」が広がった伝説のエリアがある。

明治初めに新橋-横浜間に鉄道が開通したのをきっかけに始められた煉瓦街建設。その主役であった銀座中央通りの区画に、明治20年代から銀座4丁目を中心に、服部時計店(現和光)など西洋の息吹を感じさせる店が集まり始める。その和光の裏手に広がる並木通りとの間のエリアがまさに「余白から活力を生んだ」エリアなのである。そこには路地が密集し商人や職人を中心に活発な経済活動が生まれていた名残が現在もなお息づいている。その余白は、その後大企業に発展していった起業家たちによって活かされて行った。
宝石や鉄道模型で有名な老舗天賞堂江戸時代からある宝童稲荷の周辺に集まった起業家といえば、真珠のミキモト、広告業界・電通、味の素、インク製造会社、大日本印刷の前身・秀英社、日本徴兵保険会社、日本初のタイプライター黒沢事務機器などである。

当時天賞堂の社長でいらした新本秀章店主にこの路地についてお話を伺ったことがある。

「この辺りは江戸時代、弥左衛門町という地主の名前がついていたらしいんですよ。銀座が前島だった頃そこに住んでいた漁民や中世江戸先住民も一緒にここに移動してきたらしいです」

「江戸時代からある路地なんですね」

「ほぼそのままだと聞いています。当時の起業家たちが、路地にあった土蔵造りの日本家屋の二階などを借りて、商売を始めたんですね。広さは田舎間2間、奥行き田舎間3間ほどの狭い場所(今でいえば12坪程度)だったようです。この曲がり入り組んだ路地の中に、そうした商人の卵たちが次から次へとやってきた。何か、この路地にそうした情熱を引き寄せる力があったんでしょうかねえ」

「本当ですね。その後大きく発展した企業も多いです」

「多くが大企業までに成長して、日本初という業態を手がけたことも大きかったと思いますが、そんなサクセス・ストーリーからこの路地はいつのまにか『起業家の登竜門』と呼ばれるようになり、他からも起業家たちが集まるようになったようです」

「その象徴が路地の奥にある宝童稲荷なんですね」


江戸時代に江戸城から分祀された、将軍の子息の早世を防ぐために祀られた福禄寿の意味合いがあります。元々は江戸城の中にあったのですが、この場所に勧請したようです。健やかな子どもの生育を祈る子育て稲荷なんです」


「美しいお稲荷さんですね」

「元々はもっと地味で、朽ちた目立たないお稲荷でしたが、この路地一帯を守っている私ども地元店主たち(銀友会)で資金を募り、一部建て替え直しながら掃き清めているんです。最近は、こうした謂れが影響して多くの参拝者が増えて嬉しい限りです」

店主にとって、この路地の物語はご自分の歴史ででもあるかのように嬉しそうに語られる姿が印象に残っている。その姿は目の前に広がる掃き清められた路地そのもので、実に凛としていて美しく感じられた。

ほとんど江戸時代の路地そのままに残るこの場所の物語には続きがある。
最近になって、天賞堂ビルの煉瓦通り沿いに建つ名鉄ビルの横に新たな路地が通った。
この宝童稲荷に向けて突き抜ける路地は、人一人しか通れない細さである。名鉄ビルの建て替えの際に、わざわざ路地を作るためにビルの面積を縮小させて造ったというのである。そのきっかけを伺ってみると「参道を通したかったから」とのこと。参道の入り口では、縁結びに猿をかけて「猿結び」としたアーティストの手による猿のオブジェが手招きしている。

時代を超えて進化する銀座の路地。
このように銀座の店主たちは、現代になっても路地を街の余白の魅力と位置付けて、路地作りに余念がないのである。これは街のヒューマンスケールを大切にしている銀座人たちの進化の証でもある。


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・余白を愛でるー椿

日本の美意識を表現する「余白の花」といえば、「椿」である。ツバキ科の植物で世界に1000種もの品種があるそうだが、最大の原産地は日本である。昔から椿には邪なものを祓う力があるとされ、紫式部の「源氏物語」には、正月初卯に椿でできた”卯槌”を用いたり、卯杖や卯槌を贈答したことが描かれている。

椿には「控え目な優美さ」という花言葉が伝えられるが、色によってその趣が変わる。
赤い椿には「謙虚な美徳」、白い椿には「完全なる美しさ」が添えられる。

千利休が冬から春にかけての茶花として初めて椿を愛用したと伝えられる。その後日本の美を表現する重要なモチーフとして茶湯の普及とともにそこには常に椿があった。「侘助」(わびすけ。椿の一種)は千利休好みの茶花(ちゃばな)。「控えめな趣、簡素」がもたらす美しさから日本の美意識「わび」「さび」の世界を表現できる花だとされている。ことさら白侘助は、言うに言われぬ美を放つ。利休は一輪の椿こそ「日本美の究極」とし、花が纏うその余白(空間)に崇高さが宿るとした。

さて、白い椿をめぐる物語がある。
慶長8年2月21日、「白椿ホリテ将軍へ令進之了」と日記に記した人がいる。ここでの将軍とは、征夷大将軍の座に着いた徳川家康である。家康は、その9日前の2月12日に、後陽成天皇から征夷大将軍の任命を受けている。白椿を贈った人は、醍醐寺の座主である義演准后。准后は、豊臣秀吉が自ら縄張りして「聚落第」から由緒ある明石:藤戸石を運び入れたという三宝院庭園を完成させた人である。
秀吉の残した庭園を綿々と手直しした准后、機を見ることに敏な人物であり家康が好きなのを察して、秀吉の好みとは異なる白椿を贈ったと伝わる。

白椿の木は、准后の目の届くところで、醍醐寺境内か三宝院に植えられていた。彼は、庭づくりや植物に非常に関心が高く、亡くなる元和10年(1624)までの27年もの間も、三宝院庭園にまつわることを日記に記している。もっとも、庭いじりが好きであったのは確かだが、造庭の素養はあまり持ち合わせず、庭のデザインは庭師にまかせていたようだ。准后の関心は、むしろ植木や草花の方にあった。白椿の選択も准后の判断であろう。白椿は当時でも、人々の間で関心の高い花ではあったが、近い内に大流行するだろうと読んで、江戸幕府を祝福する花に選んだと見られる。将軍家への椿の献上は以後も続き、椿には一方ならぬ関心を持っていた家康が亡くなってからは、その花守は秀忠に受け継がれる。

秀忠は、歴代将軍のなかでも飛び抜けて花好きで「花癖将軍」と呼ばれ、諸国から銘花を集めた。なかでも、特にツバキに対する関心が高かったと思われる。『武家神秘録』には「徳川二代将軍花癖あり、名花を諸国に徴し、これを後園吹上花壇に栽ゑて愛玩す。此頃より山茶流行し、数多の珍品を出す」と記されている。なお、“山茶”は椿を指す。秀忠が花好きが極まったのは、世情が安定し、財力にも恵まれて、家康以上に趣味の世界に没頭することもできたからでもあろう。


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・銀座の椿

江戸時代の初め、寛永年間(1624〜1644)を中心に、空前の椿愛好ブームが起こる。珍しい椿への注目度が高まり、多彩な品種が生まれ、そうした椿を数多く集めた書物や図譜が製作された。その中でも椿の素朴な可愛らしさや、またあるものについてはふっくらと官能的に、100種類以上もの椿が精細に描き出されている「百椿図」(ひゃくちんず)は、屈指の名品であり、歴史的にみても貴重な資料である。

この貴重な椿図を知るきっかけになったのは、銀座の花柳界を率いる老舗料亭・金田中の女将徳子さんの一言からだった。女将の縁続きのキッコーマン元社長茂木克己氏(1624〜2005)が根津美術館に寄贈されたものの中に、世にも珍しい椿ざんまいが描かれた作品がある、それは百椿図という。「酒呑童子絵巻」、拙宗等揚筆「破墨山水図」とともに寄贈されたその百椿図は、その繊細で艶やかな色彩に大きな注目を浴びたという。その存在すら知らなかった筆者にとって、憧れの椿だけを描いた歴史的作品集があるなど想像もつかなかったが、いつかは観てみたいとの思いを強くしたものだ。その後、根津美術館で公開され目の当たりにした時の感激は今でも鮮明に心の奥に残っている。

興味を持ったのは、その「百椿図」が発見されるまでに辿った道筋である。根津美術館図録の資料には概ね次のような解説があった。

「寄贈される前からその存在は注目されていた。その端緒は、華道家・安達潮花(あだちちょうか)氏(1887〜1969)が昭和22年(1947年)にこの作品の模本を銀座の古美術商で発見、入手したことにある。安達氏はこの作品に強い愛着を持ち、著書『椿 その鑑賞と生花』(高陽書院 1960年)にも掲載、椿の愛好家や研究者の間でよく知られるところとなった。その後、資生堂の所蔵となった本図の調査を任された渡邊光夫氏をはじめとする日本ツバキ協会の関係者が、寄贈後の展示で「百椿図」が原本であることに気づき、いち早くその重要性が認識された。・・中略・・その後、調査結果が公開され、潮花氏の娘である安達瞳子(あだちとうこ)氏(1936年〜2006年)の花芸とともに、日本橋三越で開催された『平成15年 安達瞳子の世界の名花 椿物語展』の図録において、「百椿図」についてのさまざまな知見が示された」


「百椿図」は「本之巻」、「末之巻」2巻の巻物になっており、椿をさまざまな器物、籠や三方、膳はもとより、盃や茶碗、史箱や硯箱、扇や団扇、あるいは鼓、色紙や冊子、塵取や箒、聖御院大根に至るまで当時の人々の身の回りの品々に自由に飾っている点が実に大胆でもある。華麗なその絵の筆者は京狩野派の祖・狩野山楽(1559〜1635)と伝えられている。
その絵には皇族や公家、大名、歌人、連歌師、俳人、儒者、僧侶など49人もの人々が和歌や俳句、漢詩の賛を寄せている。「末之巻」の最後に着賛している松平忠国(まつだいらただくに/丹波篠山藩や明石藩の藩主))が製作させ、その後その息子で老中にまで上り詰めた松平信之(まつだいらのぶゆき)が2代にわたって詩歌に堪能な文化人たちに賛を書いてもらったと考えられている。
松平忠国は、茶を嗜んで大徳寺154世の沢庵宗彭(たくあんそうほう)と親交したと伝えられ、さらに和歌や俳諧を好んだともいう。茶や文芸を通じて結び合った上層階級における椿愛好家の広がりから、「百椿図」は企画されたのだろう。


「百椿図」展 根津美術館カタログより

百椿図 カタログ


【桃椿】賛

百椿図G

みちとせをやちよによせて
ももといふつばきぞ花の
かぎりしられぬ

          ー松花堂昭乗ー

*松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう):真言宗僧侶。
昭乗は法諱、松花堂は方丈の名であると同時に号の一つ。石清水八幡宮で出家。書に秀で寛永三筆に数えられるほか、画、茶もよくした。小堀遠州、沢庵宗彭とも親交した。



黒雨垂れ1

◆銀座椿通り

銀座の街路には樹々や植物に因んだ通り名がついている。並木通り、マロニエ通り、柳通り、桜橋通り、その中で花の名がついている唯一の通りが銀座8丁目の「椿通り」である。2月になるとこの通り沿いの高い位置に開く赤い花の鮮やかさにことさら心奪われるのである。

・出雲との縁(えにし)

この椿は「出雲椿」(品種:ヤブツバキ)と呼ばれている。この辺りが現在の銀座8丁目となる以前(昭和20年代まで)は「出雲町」と呼ばれていたからである。それは、1603(慶長8年)から始まる徳川幕府による大規模なまちづくりが諸国の大名らの"お手伝い普請"として行われ、区画を請け負い造成した大名の国の名が町名になるのが一般的で、この辺りを造営したのが出雲松江藩(堀尾忠氏)だったことに由来する。その縁を紡いで昭和初期に出雲から寄贈された8本の椿が、今もなお通りに花を咲かせているのである。銀座が生まれて約400年経過した1993年(平成5年)、まちづくり改修により「花椿通り」の名がこの通りについた際に再び出雲市からヤブツバキが寄贈されている。

この椿の力は、今年2022年に創業150年を迎える資生堂とも不思議な縁を繋いでいる。
1872年(明治5年)、現在の銀座7丁目あたりに資生堂は洋風調剤薬局として創業し、1897年(明治30年)に 化粧品業界へ進出している。創業当時はシンボルマークに鷹のモチーフを使用していたが、1915年(明治48年)、創業者の福原有信の三男、初代社長福原信三自らのデザインをベースにした「椿」に改めた。この時期に「椿」マークにした理由は当時のヒット商品が「香油花椿」だったからだと言われているが、それだけではなく出雲椿との不思議な縁がそこには横たわっているようだ。

・神話につながる-資生堂精神

銀座おさんぽで資生堂パーラーや資生堂本社など、銀座の精神的な支柱となっている企業文化についてご案内することがあるが、その際に資生堂の幹部の方から興味深いお話を伺った。

「1923年(大正12年)に関東大震災で店舗を焼失してから、昭和の大不況に突入し苦しい時代を迎えます。新製品の売出しに当たり商売繁盛の願いを込めて地縁のある出雲大社のお札をお客様に配布したことがあります。有難いことにそれが功を奏したのでしょうか、大変な御利益があり、製品の販売は好調で経営も盛り返したのだそうです。」

「企業としても出雲大社との深い縁がすでにあったということですね」


「それ以降、毎年資生堂のトップをはじめ、幹部は出雲大社への参拝をかかさないのですが、当時社長の福原信三は出雲大社はもとより、出雲・八重垣神社との縁も深く、八重垣神社の芳名帳には彼の名前が見られ、遷宮の際には多額の寄付を受けたという内容まで記されています。御由緒には、夫婦椿は資生堂で神聖視されているという記述があるくらいです」

「八重垣神社というと、連理玉椿(夫婦椿)が有名ですね。」


「日本神話の主人公である素盞鳴尊(スサノウノミコト)と稲田姫命(イナタヒメノミコト)の夫婦神が主祭神で、縁結び、夫婦和合、授児安産に御利益がある神社としてご利益があると伝えられています。連理玉椿(夫婦椿)は、良縁ばかりではなく美容にもご利益が絶大らしく、資生堂の創業精神と通じることがあった点も絆を深めたのかもしれません」

福原信三氏といえば、近代写真の第一人者であり、日本写真会の初代会長でもあった。後に写真集「松江風景」を出版している。大ヒット商品を生み出して以来出雲を頻繁に訪れ、松江の風景を写真に収めた姿が思い浮かぶ。八重垣神社で出会った夫婦椿に心奪われ、その後発足した「花椿会」で椿が神聖化されたことに繋がって行ったのかもしれない。
今日に至るもこの商店街や資生堂パーラーでは、出雲商工会議所の若手を受け入れて研修を行っていると聞くにつけ、見えないところで、銀座と出雲との絆が深まっていることを知るのである。


コロナの最中でも、今年も美しく出雲椿が花椿通りに咲いている。
資生堂の椿のマークのデザインは少しずつ変更され、現在は余白の中にドローイングの椿の花と枝葉が伸びやかに位置していることを意識させるものになっている。
余白の奥を追いかけてみたら、出雲椿と資生堂のシンボルマーク、神話を司る八重垣神社の夫婦椿に出会うことになった。やはり、物事は余白の中にこそ真実があるのかもしれない、といつもながら感慨に耽るのである。


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・epilogue

ボードゲーム「枯山水」に端を発して、辿ってみた「余白」という日本の美意識。このほかにも、「余白」を発見する事象はあげたら枚挙にいとまがない。「書」も余白を創る芸術である。また世界最古の芸能と言われる「能」は「余白にこそ美が宿る」と世阿弥が伝えた究極の精神性を持つ。能舞台は真四角な空間と長い橋掛りをもつ小宇宙的な演劇空間だが、そこには舞台装置はほとんど置かれない。無駄を剥ぎ落とした空間で繰り広げられる、まるで一筆描きのように表現される極限の能楽師の所作、仕舞い、謡。観客の想像力によって完成する芸術と言われる所以である。

このように日本文化を眺めてみると、そこには日本の美意識特有の「余白」がいつも横たわっていることに気づかされる。あなたの暮らしの周りにある「余白」。そこには、今まで想像もつかないような新しい世界への道が広がっているかもしれない。


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2 能のこころ 世阿弥「野守」 鬼神の舞    ー坂井音隆師 観世会定期能 2月 レポートー

観世ご宗家が認めた、高い演能技術と芸術性を持つ能楽師だけが立つ事ができる観世会定期能の舞台。若手として観世流シテ方 坂井音隆師が勤められた能「野守」(のもり)である。人間国宝・坂井音重師を父にもつ坂井音隆師の謡は澄み渡る声質とともにその表情の豊かさ、品格に定評がある。2月6日に観世能楽堂にて上演された舞台の模様をレポートする。    

                        (文責:岩田理栄子)

鏡松


・世阿弥の名作「野守」の魅力

ストーリーは次のようである。

 舞台は大和国・御蓋山の麓に広がる春日野。鏡のように美しい池水に、旅の山伏もしばし足を止めて見とれていると、春日野の番人の野守・老翁が現れる。山伏がこの池水の謂れを尋ねると、老翁は「私のような野守が朝に夕に姿を映すので、この水を“野守の鏡”と呼ぶが、真の野守の鏡というものは、昔、この野に住む鬼が持っていた鏡のことなのだ」と教える。さらに昔、御狩の折に、鷹の行方が判らなくなった時、野守が指し示したこの池水に鷹の姿が映ったという歌物語を語る。山伏は一層興味を示し、「是非本物の野守の鏡を見たいもの」と言うと、老翁は「鬼神の持つ鏡を見れば、恐ろしいことだろうから、この水鏡をご覧なさい」と言って、鬼が住んでいたという塚に姿を消す。(中入)山伏が塚に向かって一心に祈ると、鬼神が鏡を持って現れ、天界から地獄の底まで隈なく映して見せ、大地を踏み破って、再び地獄の底に帰って行く。

鏡のような池


・和歌の抒情感に誘われて


前場は和歌の美しい言葉が、詞章の中に散りばめられる風情あふれる場面が続く。
「野守」の舞台は春の春日野である。ちなみにこの春日(かすが)という地名はカスガという地名に枕詞である「春日(はるひ)の」がついて「春日(はるひ)のカスガ」と呼ばれていたものが漢字と読みが一緒になって春日(かすが)という地名になっていると伝えられる。「飛ぶ鳥のアスカ」と同じ経緯である。だから春日野の春の日というのは時も時、所も所もということになる。この春日野に一人の老翁(前シテ/坂井音隆師)が登場する。杖をつきつつ現れるが、老人といっても、強さを内に秘め毅然とした姿を醸し出している。


春日野の 飛火の野守 出(いで)て見れば 今幾程ぞ 若菜摘む
               ー古今和歌集 春歌上 詠み人知らずー

春日野(飛火野)の芽吹く生命力と、春日大社や興福寺を抱える奈良の都に対する憧れと懐かしさを込めたシテの伸びやかな謡が始まる。

シテの詞章の中に和歌の世界が散りばめられている。

(シテ詞章)
これに出でたる老人は。この春日野に年を経て。山にも通い里に行く。野守の翁にて候なり。有難や慈悲万行の春の色。三笠の山に長閑に。五重唯識の秋の風。春日の里に音づれて。誠に誓いも直(すぐ)なるや。神の宮路に行き帰り。運ぶ歩みも積もる老いの。栄行(さかゆ)く御影。頼むなり。
唐土(もろこし)までも聞こえある。この宮寺(みやてら)の名ぞ高き。
昔仲麿が。昔仲麿が。我が日の本を思い遣り。天の原。ふりさけみると詠めけん。三笠の山蔭の月かも。それは明州(みょうじゅう)の月なれや。ここは奈良の都の。春日(はるひ)長閑き景色かな。春日長閑き景色かな。

和歌に出てくる若菜摘みの行事は現在でも七草粥という習慣に残っているらしい。立春を過ぎて最初の若葉を積むこと、菜摘女はうら若い乙女であることを合わせると、これから芽吹く最初の若菜の生命力にあやかる意味合いを感じて心が華やぐ。2月という時分に相応しい季節感をもたらしてくれる。

「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」
                ー古今集 安倍仲麻呂ー

ー天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が昇っている。あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。ー

この有名な歌を詞章に見つけると、春日の景色がますます目の前に広がるようだ。坂井音隆師の駘蕩たる謡が、これら世阿弥が想像した自然観と相まって、実に澄んだ波動で聴き手に伝わってくる。胸を響かせた声色が、春霞の大和国・御蓋山の麓に広がる春日野の風情を湛えた表現として胸に迫ってくるようだ。


そしてこの老翁・野守は山伏(ワキ)と出会い、問われるままに野守の鏡と呼ばれる「水」の謂れについて言葉を交わす。一つは水が鏡となって野守の影を写すからそう呼ばれる様になったという話、そして昔鬼神が持っていた鏡の事を野守の鏡と呼んでいたとの話をシテは語る。続いてワキが歌の謂れについて問いを重ねる。

「はし鷹の 野守の鏡得てしがな 思い思わずよそながら見ん」

この歌は、『新古今和歌集』や歌学書にある和歌から引いているが、この和歌に着想を得て世阿弥はこの能「野守」を作ったと言われる。この場面でのテンポのある囃子と謡、そして型が一体となった場面が前場の見どころである。力強く歯切れのいい謡と囃子との妙技は、後場で登場する鬼神の舞の予知を感じさせていて心が沸き立つ。


野守の老翁(前シテ)は、この野にある溜まり水が“野守の鏡”と呼ばれていることを教え、しかし真実の“野守の鏡”とはこの水ではなく鬼神のもつ明鏡のことだと明かす。この溜まり水が和歌の世界で“野守の鏡”と呼ばれるに至った故事を語る老翁。前場では、野守の鏡などに関する伝説や故事がうまく取り入れられ、池の水を何事をも映す鏡に見立てるなど、野守の雅味を持つ尉の語りが実に美しいのだ。音隆師の澄んだ謡の表現がこの場面をより芳しいものにしている。

・鬼神の舞ーその力強さと美しさ


シテ方坂井音隆師による「鬼神の舞」 

定期能 野守 音隆先生

                          撮影 前島吉裕

山伏はなんとかして野守の鏡を見たいと思うが、野守はその願いが叶わない事を告げて塚の中へ入っていく。
山伏が塚に向かって一心に祈ると、恐ろしい形相の鬼神が鏡を携えて現れる。唐冠に赤頭を着け、面は〈小べしみ〉、法被(広袖の衣)と半切(袴)に、大きな円鏡を持った鬼神は、威容を示す力強い動き〈舞働〉の後、四方八方、天界から地獄まで鏡に映して出して見せる。


*舞働(まいばたらき):神仏や龍神、天狗等が威勢を誇示するなどの場面で舞う働き事(囃子を伴う所作のこと)のひとつ。単に「働/はたらき」ともいう。笛・小鼓・大鼓・太鼓で奏する。

世阿弥は、人間の執心や怨霊が変化した「砕動風」の鬼と、自然の中にある純然たる存在である「力動風」の鬼の二種類に鬼を分類しているが、「野守」に出てくる鬼は「力動風」の鬼でありながら、風情が感じられるような工夫が施されているように感じた。最後には大地を踏み破って、再び地獄の底へと帰っていくのだ。


シテの坂井音隆師の「鬼神の舞」は、その型の決め方に力強さと繊細な優美さが秘められていて、観ていて実に清々しい思いがした。荒々しい所作なのに気品がある、それでいてひとまわりも大きな舞の空間を表現しているように観えた。能楽師のお人柄が溢れているような鬼神だった。

鬼神:東方の降三世(ごうざんぜ)明王もこの鏡に映り
   八方が曇りなく明らかとなり
   三界の最高である非想非非想天まで隈なく映り
   まず地獄道。


地謡:まずは地獄道の有り様を現す一面八丈の浄瑠璃の鏡となり、罪の軽量によって罪人を阿責して、鉄杖で何度も打ちつける様子などがしっかりと見える。これこそ、鬼神に横道がないというばかりでなく、罪人の横道を正す明鏡の宝なのだ・・・

最後の場面は、宗教観、宇宙観を表すやや難しい言葉が出てくるが、古より鏡は、不思議な力を宿すものとして大切にされてきた。人の心はもとより、すべてを映すことの出来る特大の鏡を持って現れる鬼神は、“鬼”とはいえ、暗いイメージではなく、世阿弥が「巌に花の咲かんが如し」と言ったように、精悍な美しさを持った存在として描き出だされていた。

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観世流シテ方坂井音隆師は能公演の一方で「NPO法人白翔會での活動」を精力的に行っておられます。白翔会は日本及び外国の人々に対して、世界無形遺産に指定された伝統芸能である能楽を公開し、普及公演活動や実技指導に関する事業を行い、能楽鑑賞人口の拡大に寄与しています。年一回開催されている能の普及活動・坂井兄弟会主催「What's Noh in 観世能楽堂」の場において、私ども銀座花伝プロジェクトの活動もご支援いただいています。

【坂井音隆師 公演情報】

本年「坂井同門会」において、下記日程にてシテ方を勤められます。                         と き:令和4年9月13日(火)16時開演                ところ:水道橋能楽堂 *東京都文京区本郷1-5-9                       演 目:能「三井寺」           

*東京大空襲で都内の主な能楽堂はほとんど被災した中、いち早く再建されたのが水道橋能楽堂で、本郷の地から戦後の能楽界の活動拠点として重要な役割を担ってきています。http://www.hosho.or.jp/


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    「What's Noh in 観世能楽堂」能面・装束体験 白翔会HPより                


◆観世能楽堂情報

🌟二つの世界の狐 伝統芸能フェスティバル            能×歌舞伎〈坂口貴信✖️中村児太郎)


と き:2022年3月27日(日) 第一部開演 11時  第二部開演 15時    ところ:観世能楽堂(GINZA SIX地下3階)

 演目の解説  坂口 貴信    中村児太郎

 一     管              狐火  田中傳十郎
 舞 囃 子     小鍛冶 重キ黒頭  観世三郎太
 常 磐 津      四季詠所作の花ー葛の葉道行ー 中村壱太郎
                

 常 磐 津            本朝廿四孝ー狐火之段ー 中村児太郎
    半 能           殺生石 白頭 坂口 貴信

チケット申し込み   kanze.net

能歌舞伎チラシ

先日行われた記者会見の模様はこちらから(能楽マガジン Nohプラス)


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🌟名作能「楊貴妃」 坂口貴信師 気品の舞
 ー「三人の会」公演  

と き:2022年3月12日(土) 開演 13時 開場 12時20分            ところ:観世能楽堂(GINZA SIX地下3階)

【演目】

仕舞    屋 島       谷本康介
      花 月   キリ  谷本悠太朗                   能     楊 貴 妃        坂口貴信                     狂言    宗    八          野村太一郎                                                                    仕舞   笹之段             観世銕之丞
      玉之段             観世清和                                                                        能    善     界  白頭  谷本健吾 川口晃平

白楽天が、玄宗と楊貴妃の悲運の愛の物語を詠んだ「長恨歌」をベースにストーリーを脚色した作品である。玄宗皇帝と楊貴妃の深い愛と会者定離の悲しみを描いた金春禅竹作の名作である。その気品と哀愁を湛えた作風から「定家」「大原御幸」に並ぶ「三婦人の一つ」に数えられる名品と称えられる。坂口貴信師による優美さ、気品、寂しさ、静けさといった情感をたたえる謡、舞が、どのように披露されるのか実に楽しみな舞台である。

【story】

「長恨歌」から能「楊貴妃」へ

楊貴妃(719〜756)は、蜀の楊家に生まれ、玉環と名付けられた。幼時に父母を亡くした彼女は叔父の養子となりその後、生来の美貌から、玄宗(685〜762:唐の第9代皇帝)の十八子、寿王の李瑁(り・ぼう)の妃になる。ところが、その美しさに心を奪われた玄宗は、楊貴妃を自分の後宮に入れてしまう。玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、彼女の親族も唐の要職を担うようになる。その一人が、楊貴妃の従兄弟、楊国忠(?〜756)だった。楊国忠は宰相として権勢を振るいまうが、やがて、唐の軍人で楊貴妃の養子となった安禄山(705〜757)と激しく対立する。その結果、安禄山は唐に対し安史の乱を起こす。安禄山の攻勢を受け、玄宗は首都長安から逃げ、楊貴妃や楊国忠も同行するが、馬嵬(ばがい)という場所に着くと、皇帝警護の親衛隊が、乱の原因を作ったと咎めて楊国忠を殺し、楊貴妃の死も要求する。そしてついに、楊貴妃は玄宗の命により縊死させられてしまう。長恨歌には、乱が鎮まった後、皇帝は深い悲しみのうちに、道士(方士)に楊貴妃の魂魄の行方を探させたと書かれ、そこから能の物語につながってく。

【見どころ】

〈能「楊貴妃」の出会いと別れ〉

唐の玄宗皇帝により、亡き妃、楊貴妃の魂魄(こんぱく)の行方を探し求めよとの宣旨が下され、帝に仕える方士はその旅の果てに広大かつ壮麗な宮殿、蓬莱宮へと辿り着く。そこへ帝と過ごした日々を懐かしみ、今の一人を嘆く声が聞こえ、太眞殿の玉簾を引き上げて楊貴妃が姿を見せる。

この世は果てなく流転し、生者必滅の理からは誰も逃れる事が出来ない。かつて天上界に住んでいた楊貴妃も現世仮に人間界に生まれ、そして帝と出会った。しかし比翼連離の誓いを交わした二人も会者定理(えしゃじょうり)の理からは逃れられなかったのだと楊貴妃は悟る。


三人の会 チラシ

チケット申し込み   kanze.net


3 銀座情報

◆ 禅茶を楽しむ「寿月堂」 

 歌舞伎座で手軽に一幕見席を楽しんだ後に待っている、芳醇なゆったり日本時間。歌舞伎座の最上階まで足を伸ばし、まずは屋上庭園を臨む3000本の竹に覆われた空間で一服、まさに禅の世界に足を踏み入れたかのようです。

寿月庵 竹スタイル

                         隈研吾氏設計 店内

こちらでの楽しみ方のオススメは、「茶禅事始め体験」。実際にお手前を体験しながら、道具や、所作を味わいます。寿月庵の運営は創業安政元年の老舗丸山海苔店ですが、パリのサンジェルマン・デ・プレ地区セーヌ通りにも進出、日本茶を通して和の文化発信をする『寿月堂 パリ店』も人気です。金春通りにある老舗「東哉」の器を推奨するなど本物に触れられるの機会としても魅力です。

さすが海苔の老舗と唸るのは、こちらの海苔は鮨の名店、「鮨さわ田」「鮨 さいとう」「すきやばし次郎」などが肝煎りでこちらの海苔を使われていること。海苔の美味しさを持ち帰りたい場合には、「極上こんとび」がオススメです。

「こんとび」は12月の厳寒の海で自然発生する青のりを海苔芽と一緒に摘んだもので、青海苔が混ざった香りのある海苔。海苔の業界用語で、青海苔が多く混じったものを「混」、軽く飛んでいるものを「飛び」といい、その混ざり具合で香りや風味が違ってくると言われる。自然の産物ゆえに希少性が高く、野趣あふれる味わいは、口の肥えた老翁をして「昔の海苔に一番、味が似ている」と言わしめた逸品。

寿月堂 ほうじ茶ケーキ

        名物 抹茶モンブラン(ほうじ茶もあり)



◆ GINZAリモージュBOX By   和光

銀座和光 リモートBOX

2022年は時計塔の竣工から90年、和光が設立されて75年という節目の年に因んでメモリヤルな品々が発売されています。
フランスの中部に位置する磁器の街リモージュで、1点ずつ手作りされているリモージュボックス。小さな空間で繰り広げられる微笑ましく楽しい世界にはファンも多く、和光でも大人気のアイテム。ボックスの中にも美しい絵付けがほどこされていたり、作品のテーマに合った小さなモチーフが付いているものもあり、愛らしい小物入れとしてはもちろん、オブジェとしての魅力にも溢れています。

【時計塔90年記念】 リモージュボックス 45,100円(税込)


4   編集後記(editor profile)

ちょうど1年前の3月1日、墨彩の前衛書家として活躍された篠田桃紅(しのだとうこう)さんが亡くなられた。父上による厳しい儒教の教えから脱皮するような形で新しい水墨抽象芸術の世界に身を投じていかれた。脱皮のたびにその画風には水墨に金銀や朱を交えられ、幽玄さと鋭い造形感覚を併せ持つ作品を生み出していった晩年の活躍は記憶に新しい。

銀座の鳩居堂での個展がデビュー最初だったと聞く。当時の前衛的な画風は「根無草」との批評も受け、世間からの逆風があったことが新しい水墨画との出会いを後押してくれたとエッセイに書かれている。

名文家の桃紅さんが遺した本「人生は一本の線」の中に、「心の空白」とい散文がある。

「人には、言うに言われぬ空白が、心の中にある。              表現し得ないもの。                         自分でも、これはこういうことだと、はっきりわけがわかってやっているわけではないもの。                          なんであんなことをしたんだろうと思っても、わかりゃしない。                               人は、不思議な生き物だから、                    自分でもわからないことをやりながら生きている。           そうした心の空白を、                           無意を為す、と老子はいったのではないかと思う。」

老子の心を胸に、墨の「黒いろ」(くろいろ)「玄」(くろ)の深底を極められた方だった。東洋の伝統と抽象絵画の融合まで昇華された生き様こそが素晴らしかった。107歳まで現役、亡くなる直前まで精力的に進化し続けた生き方に学びたいと思う。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

          責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子:      【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊

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