見出し画像

銀座花伝MAGAZINE vol.23

#気品の栖(すみか)  #地図にない街  #「山姥」能舞台レビュー

画像1

深い海に潜っていたような閉塞感に少しづつ光が見えはじめた銀座の街角。海面から顔を出し、恐る恐る息をしてみる人、思いっきり深呼吸する人。それぞれの店が苦しかった時間に培った知恵を「これから活かすのだ」とようやく一歩前に足を踏み出しました。

絶望感ばかりだったコロナ禍で私たちは、使命感を持って体を張ってくださった医療従事者の「人間としての品格」にどれだけ助けられたことでしょう。そのお陰で、今この時も生き続けられています。商業をはじめとしたあらゆる私たちの経済的営みも、この献身的な医療があってこそだと改めて痛感しました。

人格的価値の中で最も貴いものは「気品」で、「人間の値打ちのすべて」だと言われます。同じく店商売にも言えることで、銀座は対面商売ができなくなることによって、この街にとって失われた「美学」は計り知れません。街の様子も大きく様変わりしました。しかし、唯一育んできた「商いの美学」は、手から放すことなく生き残った老舗を中心に、しぶとく美しく今も呼吸を続けており、それこそが、銀座が銀座であるための生命線だと言えます。

銀座が大切にしてきた「気品」の栖(すみか)について、番地のないエリアに眠る物語や、今も踏ん張っている老舗、あるいは銀座が持つ歴史の中からその姿を探っていきます。また、世阿弥の名作「山姥」能舞台(9/18「坂口貴信之會」)に皆様から寄せられた感動レビューを中心に公演の模様をお伝えします。

銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していきます。


M23キャンドル


1. 特集 気品の栖(すみか)


■1丁目1番地 地図にない場所

銀座には、地番の無い摩訶不思議なエリアが存在する。地図にどんなに眼を凝らしても地番が無い、銀座1丁目1番地はそんな謎めいた場所なのだ。

境界線を誰も決めなかったから、長い歴史の中で忘れ去られた空白土地となった。この幻の土地はもともとは河、時代が変わって今では高速道路になっている。だから、銀座1丁目1番地は確かに土地はあるのに地図には2番地からしか存在しないのだ。

ただ、この番外地には、昔から不思議な言伝えがある。銀座の檜舞台から去って行った者たちの失われた記憶がここには眠っていて、そこに立つと不思議な時空に引き込まれるというのだ。いつしか私にとっても、この場所は商いの成功を夢見ながら情熱を注いだ店主たちの無念に出会える聖地になった。

彼らの追いかけた気品、美学にかかわる物語を少しご紹介しよう。


画像16


・銀座江戸っ子商人の教え


夜討ち朝駆け

この言葉に出会ったのは、かつて世界中のブランドを「ブランドは文化だ」と言い放ち、日本にエルメスやグッチを紹介したサンモトヤマの創業者であり会長の茂登山長一郎さんの生き様を知る中であった。
もちろん、銀座にはブランドの影も形も無い時代のことである。

大正10年(1921年)に日本橋のメリヤス問屋に生まれた彼は、昭和16年(1941年)、太平洋戦争突入の年に招集され、中国各地を転戦、復員後焼け野原の東京で主にアメリカ製品を闇で扱う商売から身を起こして行った。泥まみれになってヤミヤ商いに精を出す先の見えない生活。○○を売れば儲かる、という儲け話に目の色を変える日々の中で、「いつか、世の中にない良いものを売る真っ当な商人になる」が口癖だった。お金が貯まって、世界を見たいとヨーロッパに出向いた時、歴史深いブランドが手仕事の美しい商品を売っている姿を目にする。しかもまだ戦後間もない時期に日本人がこぞって観光客としてやってきていて、さらにその商品をもとめて日本から来ている人たちも多いという現状を知る事になる。そんな折りに眼の覚める様な助言をくれたのが、日本人として最初に「LIFE」(ライフ)の写真を撮った写真家名取洋之助氏だった。「いいか、お前たちが今崇め奉っているアメリカの商品は、すべてヨーロッパがその源泉。これからはヨーロッパの文化を売れ。」この言葉が生涯耳から離れる事は無かったと云う。

その言葉を胸にヨーロッパを回遊すること1ヶ月。商品の美しさを探し求めて、行き着いたのがエルメスとグッチだった。これらの品物を日本に輸入できないか、直営店になれないか、模索の日々が始まる。しかし、敗戦国からやってきた野蛮な国の商人はさげすまれることはあっても、対等の商売人としてみてもらえない年月が長く続いた。グッチの社長の帰り時間に待ち伏せしたり、早朝門が開く時間に押しかけたり、まさに目的の為なら『夜討ち朝駆け』手段は選ばすひたすら何年も通い続けたという。

気品の印

余りにも長い年月通って来るので次第に本店のスタッフも気を許すようになる。
ある日、ようやく本店の中に入らせてもらった茂登山さんは、「ボンジョルノ!」と明るく声をかけてくれたスタッフと革製品について軽口をたたいていると、奥から紳士が登場して出てきたという。
「君か、毎年やってきているという日本人は」—この人がフィレンツェのグッチの社長、パスコ・グッチその人だった。

ショーウインドウがあんまり美しくて・・・と恐縮していると、社長自らが高級な馬具や猟銃道具そして旅行バッグなどの話を熱く語りだした。緊張と嬉しさで身が固まる思いをしていると、社長はおもむろにショーケースの中から高級な銀製のシガレット・ケースを出し、パチンパチンと開け閉めしてそのふんわり収まる美しさを披露した後、「手に取って見なさい」と言う。茂登山さんはそのとき、無意識のうちに胸のポケットチーフを取り出し、それを手のひらに広げてシガレットケースを受け取った。そして中を確かめ、指紋の着いた部分をチーフで丁寧に拭き取ってそっとショーケースに戻した。
この所作こそが、グッチ社長をして「この男は信用できる」と思わせた瞬間だったと茂登山さんは振り返る。

チーフで受け取る、その無意識に出た所作は、単に高級品を扱うから、銀は直接手で触れては行けないから、という理由からでは無かった。『文化』である芸術品を取り扱うに相応しい自然の行為だった。
「私は粗雑な生き方をしてきたけれど、商売をしながら育ててくれた母が〈商品〉には〈魂〉が宿っているのだよ。大切に扱うんだよと常に教え続けてくれた、その美意識が心棒となっているのだ」と語られている。

2017年に亡くなるまで生涯現役の銀座商人だった茂登山さんは「銀座の江戸っ子・長さん」と皆に慕われたが、後継者にその美意識は引き継がれず、その後一年余りで店は廃業、銀座から姿を消した。
だが、長さんの「文化を売る商いをする事。気品を感じさせる所作が商いの原点」という教えは、今も銀座に語り継がれている。


M23チーフ



・鰯専門店女将が教えてくれた 美学

ハンカチーフの魔法
今は失われてしまったが、銀座に世界に一つしか無い鰯(いわし)の専門店があった。門構えに老舗観が漂っていて、「気」を入れないと敷居をまたぎづらい。だが、ひとたび暖簾をくぐると、実にシンプルなしつらえが醸し出すアットホームな穏やかな雰囲気、そこで奥行きのある御出汁の中に新鮮な鰯の唐揚げにみぞれがかかった逸品メニューに出会えるのだ。

不思議な事に、店内には著名な画家の絵があちらこちらに飾られていて、さながらギャラリーのようで、お客様の中には〈絵を見に来る〉方々も少なからずいらしたようだ。
特に有名な絵は老舗らしい風格を残す店内の右奥にかかっていた。
マックス・フレーバー(1919年〜1992年)の絵だ。スイスのグラフィックデザイナーだった彼が1970年、来日の際にこのいわしやに足を運び、鰯料理にいたく感激しその御礼にと残したのが、イタリア語で鰯を意味す「SARDE」と云う文字を描いた作品だ。訪問してから日本にいる間に手がけたもので、鰯を模ったゴム判で即興でぺたぺたと押して創ったといい、その洒落たセンスには多くの人々が魅了された。

2階もあるそのお店は、創業者の3代目とともにその母親である女将さんと妹さんだけで切り盛りしていた。江戸っ子らしい気っぷの良さと気品を兼ね備えた女将さんは、私のイベントの際にはいつもきめ細やかなおもてなしをして下さった。閉店前の人気の無い仕事終わりに伺った話が今も忘れられない。
女将の祖母と云う方は、明治女でしかも武家育ちだったので躾が大変厳しかった。いつも口うるさかったけれど、特に「見目麗しい」ということをよく言われた。「見目には普段の暮らしぶりが出る」から、普段から所作や姿勢に気をつけなさいよ、台所での姿勢、掃除をしている時の自分の格好を思い浮かべながら仕事をするのですよ、と。更にそのバロメーターは「自分の出している音」なのだから、耳を澄ましてどんな音を出しているのか聴きなさい、とまで注意された。おかげで、お店での立ち居振る舞いに無理なくお客様に心地よくいて下さる雰囲気を作れたのですから有り難いことでしたーというのである。

普段着の気品

特に「心を整える習慣」として、出かける時には3枚のハンカチをバッグに入れるのが淑女のたしなみだと教えられた。1枚は手を拭く為の少し厚手のガーゼハンカチ、1枚は薄手の美しいレースが入ったもの。薄手のハンカチは、お食事の際に膝に掛けたり、訪問先でちょっとした甘味を頂いたりした時に包む、といった具合。そうして3枚目は、顔を軽くぬぐう為のものとして用意して整えているという。このおかげでどのような時にもあわてずに対応することができたので、武家の嗜みの凄さに感じ入り、そのことだけは今でも習慣になっているのです、と笑う。

その当時は3枚目にピンとこなかった私も、今では3枚のハンカチはどんな阻喪にも対応できそうでいつも心とライフスタイルを整える味方になってくれている。コロナ禍においては顔に付着したウイルスが、顔を触った際の手指を通じて口に入ってしまう事への対策として、3枚のハンカチの威力は嗜みとともに絶大だと思える。

後継者の問題で、オンリーワンのいわし専門店は廃業を余儀なくされた。
老舗の穏やかな雰囲気と口伝で伝えて下さった、「普段の心の整え」の証、美しい所作と嗜みを暮らしに活かされていた女将の姿は銀座の美意識の原点だ。

画像16




■「銀」と街の記憶  〜昔、銀座は島だった〜


今から400年前の16世紀、江戸時代を迎える少し前の話である。京都から江戸に都が遷される頃、現在の東京駅から日比谷あたりも入江で銀座は穏やかな海に浮かぶ「前島」という島だった。

話は脱線するが、東京全体を俯瞰するという視点で次第に面白い事が分ってきた。哲学者で文化人類学者・中沢新一氏らの研究によると、地質学の研究の進歩によって、今ある東京の場所が、縄文海進期と呼ばれる時代に、どんな地形をしていたのかまで分るようになった、というのだ。堅い土でできている洪積層(こうせきそう)という地層が地表に露出しているところは、縄文時代に海水の浸入が奥まで進んで来た時にも、陸地のままだった。この陸地だった所をえぐって水が浸入して来た所には、沖積層(ちゅうせきそう)という砂地の多い別の地層が見つかる。この二つの地層の分布を丁寧に追っていくと、その時代にどのへんまで海や川が入り込んでいたのかが分ってくる。
こうしたやり方で東京全体の地図を描き直すと、東京は実に複雑な地形をしたフィヨルドの様な地形であった事が分って来た。
歴史が進んで、どんなに都市開発が進んでも、ちゃんとした神社やお寺のある場所にはめったなことでは手を加える事が出来ない。そのために、都市空間に散在している神社や寺院は、不思議な事に開発や進歩などという時間の侵食をうけにくい「無の土地」(と呼ぶらしい)のままとどまっている。銀座の様な猛烈なスピードで変化して行く経済の動きに決定づけられている大都市空間の中に、時間の作用を受けない小さなスポットが散在しながら都市に影響を与え続けているのだ。
そして、そういう時間の進行の異様に遅い「無の場所」のあるところは、決まって縄文地図における、海に突き出た岬ないしは半島の突端、あるいはその先端の島なのである。縄文時代の人たちは、岬の様な地形に、強い霊力を感じていたので、神様を祀る聖地を設けた事が考えられる。銀座には現在300程の稲荷(ビル中も含めて)が散在するのは、こうした土地の記憶によるところが大きいのではないかという気がしてくる。


話を元に戻すと、銀座が前島だった頃、つまり家康が江戸に入った頃には、その島には漁村があるだけだった。その村は「老月村」(ろうげつむら)といって、毎日内海で静かに漁をして生計を立てている漁民たちが住む村だったのだ。ところが、江戸幕府は、今の駿河台辺りにあった神田山を掘り崩した土をせっせと江戸前島に運んで(33年もかかった)埋め立てを始めたのである。老月村の漁師たちには、漁ができなくなった見返りに、埋め立てによって出現した新しい人工の土地が生活保障として与えられる事になった。つまり老月村から移住して来た漁民たちこそが銀座の初めての住人であった。

M23島


・金属職人工房の街へ〜文化合流と「粋上品」

家康は、移住して来た漁民たちの場所に貨幣を鋳造し管理を司る職人と両替商人が共存する街を作った。銀を吹いたり加工する優秀な金属職人を京都からヘッドハンティングし、一カ所に集めて(現在の銀座2丁目当たり)銀貨の鋳造を始めたのである。

京都の職人たちは、金属職人特有の奇抜なファッションに身を包んでいた。婆娑羅的なその出で立ちは当時の江戸の人々を魅了した。異様におしゃれな感覚を流行らせた新モードは、たちまち江戸の市民ファッションの定番となって行った。加藤曳尾庵なる人物の「我衣」という随筆の中に当時の様子を伺い知れる興味深い事が書かれている。
「元禄の頃から京都や大阪で流行っていた羽織の着方は、極端に短く着こなすというものだった。最近京都の人たちが多数、銀座にやってくるようになった。銀座は元禄の頃は、三宝とか四宝という質の悪い銀貨をたくさん鋳造していて大儲けで繁盛していた。若い手代(てだい)たちまで湯水のように浪費をするようになり、吉原等でも「銀座の客は一番」などともてはやされ、世間でもそれを羨ましく思い、金属職人たちのファッションを見習うようになってきた。彼らは裾を極端に長くしてかかとにくっつく位にし、羽織の方はひどく短くして着こなす。これが江戸中に流行していった」

・東西の文化の合流
かくしてこの街は「銀座」という名前になった。ここは職人の感覚が創る街である、という宣誓でもあった。
「銀」という大地の霊に守られた鉱山技術にかかわる職の熱い熱を加えて吹き立てて、真っ赤に溶けた金属流を取り出してそれを加工するということで育まれた荒々しく大胆で華麗な気質と、土着の漁師たちの日本人特有のおだやかで自然と一体化した気質と遭いまみれながら、何所か常識破りな気質と感覚が育って行ったのである。

つまり、西の金属職人は技術以上に特有な荒々しく大胆で華麗な「美意識」をこの地にもたらしたということができる。


・粋上品

一方で「銀」の持つイメージが醸し出す「上品さ」は、京都からやって来た職人たちの婆娑羅と「雅」と表裏一体でもあった。そうした、京都の「雅」と江戸の「粋」が合流した街の文化は、次第に「粋上品」という美意識で語られるようになるのである。
高級な宝石店が国内外から呼び集まり、江戸文化と結合した「日本文化」を売る老舗の種が少しずつ蒔かれるようになり、現代のこの街を形作って行く。

M23時計台


■良いものを手入れしながら使う 「美学」

 ・土地の記憶を受け継ぐ 銀器の専門店

「銀」の上品さを形にして、脈々とその文化を守り続ける老舗がある。銀座1丁目に店を構える日本で初の銀器専門店「宮本商行」だ。明治13年(1880年)創業のこの老舗が伝えるのは「何代にも渡って使い続けるという文化」だという。設立時期の明治初期から外人商館や外国公館に広がり、皇室や各宮家からも受注するようになった。宮家の食卓を彩り、迎賓館での晩餐・国賓のおもてなしに使われるようになる。「宮内庁御用達」は有り難いが、敷居を高く感じさせてしまうので余り伝えて欲しくない、というのが店主の偽
らざる気持ちだ。

ここで扱う銀は970/1000の純度をもつ真の銀製品である。伝統が培ったクラシック感覚と熟練職人の手による精緻な加工技術には驚かされる。本物の銀は手で直接触る事が憚られるナイーブな金属で、「手入れ」こそが美しく保つ命である。銀器マイスターは、日に2回は磨かないと耀きが損なわれるので、給仕のいる貴族でないと使い続ける事は難しかった、そういう意味での高級感の象徴だったのだと思います、と言う。

ヨーロッパで古代より愛されて来たシルバーとブルーの組み合わせで彩られた店内は、気品と格調に彩られていて、その一室には、重要文化財(人間国宝)の桂盛仁氏はじめ「国内最高峰の銀職人たちの匠に技」に触れる事が出来る。職人芸を映像に収めたオリジナル作品も上映されている。

以前、皇室宮中晩餐会の献立を考案する料理研究家に監修をお願いし、その再現を体験する企画を資生堂パーラー/レストラン最上階で開催したことがあった。開催前に、参加者の皆様をこの宮本商行にご案内し、「銀器の本質」ついて店主から伺った。

「物を大切にする背景には《すべてものに神様が宿っている》という日本ならではの信仰心がある”と思っています。昔はどんなものにも神様が宿っていると教えられて、物を粗末にするということは、神様を軽んじていると親から教えられたものです。銀は磨くと鏡みたいに輝きます。鏡に向かえば、そこに自分の姿を見出す。それを見つめる度に、私たち自身の中に神様がおわすのだと感じます。良いものを大切に手入れをしながら使う、それは一見単にものを磨いている行為のようですが、実は自分自身を手入れしているのです。そうした文化を私たちはお届けしているのだと思っています。おそらく皇室の文化はそうした美意識に根付いているのではないでしょうか」

宮中文化である有識故実(ゆうそくこじつ)にも繋がるお話は、身が清められるような凛とした空気感まで伝えて下さっていた。


M23宮本


■ 所作で「礼を尽くす」と云う美学

・養蚕農家を応援する呉服店

早朝銀座を歩くと、それぞれのお店の掃除風景に出会える。店主が自分の店だけでなく、周辺の舗道や通りを掃き清めている姿には、頭が下がる。私が銀座で最もおもてなしが行き届いていると思うお店には、掃除の仕方にも美しさがある。

早朝、呉服店・銀座もとじの店前には、重厚な木の扉の横にある大きなガラスウインドウを、着物の袂(たもと)にたすきがけして磨いている女性の姿がある。キリリとしたうなじが上下左右に手早く動いていて実に気持ちがいい。掃除をする姿と云うのは、実に清々しいものだが“美しい掃除姿”にはそうそうお目にかかれるものではない。大概掃除の時は、眉間にしわが寄ったりして、表情も硬くこわばって見えるものだ。ところが、この店のスタッフは、楽しそうに掃除をしているのである。横顔がいつも微笑んでいるようで、「心を込めて」拭いている気持ちが伝わってくるようなのだ。朝礼等の決められた訓示の時間だけでなく、寸暇を惜しんで「わが商いの本質、おもてなしの真髄」について伝えているからに相違ない。


銀座もとじは、日本の着物に革命を起こした存在である。“店舗はメディア”だと、店内にはイサムノグチ・デザインの石オブジェが配置され、国内でも最大級の一枚板、長さ4メートル、幅1メートルの栓(せんのき)の大テーブルが中央に置かれその机を挟んでの接客が行なわれる。床は自然の土をたたきしめた「たたき」になっていて、壁は和紙で創られ従来の呉服店には無い異空間が演出されている。経営的にもこれまでの委託販売ではなく商品は全て買い取り、掛け売りや値引きはせずに価格を正しく表示した。過剰な接待、食事会は一切せず、展示会もせずそうしたコストを価格に上乗せする事を一切やめる。旧い慣習を捨てて、誰が見ても明らかな明朗販売にすることを最も大切にしたのである。

明らかにしたのは価格ばかりでなく、養蚕農家の生産から一本の絹糸が生まれ、一反の着物が出来るまでの過程までも目に見えるようにした。
外国産に押されて、国産の絹は生産率が1%以下と云う落ち込みぶりで国内の養蚕農家の疲弊ぶりは目を覆うばかりとなっていた。その窮状をみて、銀座もとじの泉二弘明社長は、日本の養蚕農家とそれに携わる着物作家たちを応援する事を第一義とする店づくりをコンセプトに“日本の着物文化再生”へ舵を切って行くのである。特にそれまでなかった「男の着物」の領域を新たに創り出し、「洋」におされていた「和の文化」の新たな台頭を牽引する事になった。それは、日本文化の中に眠っていた新たなライフスタイルの芽映えを創りだす事にもなったのだ。


M23浮世絵

*『東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸をとる図』メトロポリタン美術館


・店格とお辞儀三回

銀座で店格の高さは、帰り際のお辞儀こそが語り尽くすと云われる。
もとじの店を後にする時、かならず店主とスタッフが出口まで言葉を交わしながら見送りし、別れ際にお辞儀をする。少し歩いた所でお客様が振り返るあたりでお辞儀をし、角を曲がり姿が見えなくなる瞬間にさらにお辞儀をして見送る。三回のお辞儀は、決して儀礼的ではなく、よく見かける礼儀作法とは一線を画した、お客様への敬意にあふれている。お客様ばかりではなく、作家、農家の人々、見学にいらした方々すべてに同じように接している光景は、美しい舞台を見ているようである。銀座の老舗でも、3回のお辞儀をする店はめっぽう少なくなった。

一度その礼を尽くす事について心得を社長に伺った事があった。
「よくお辞儀をすると云いますが、これについて私どもは接遇というよりかつての日本人の美徳『武士道』の「礼」の考え方に基づいています。結局は「お客様の生活からくる日々の思いを自分の事のように思える」寄り添いだと思っています。だとすれば、目の前にいるお客様は確かにお客様なのだけれど、お一人の人間として敬意を示す、そういう気持ちで頭を下げさせて頂いています。『礼』と『接遇』は全く質が違います。日頃が出ますからね。スタッフには日頃からの心がけ、掃除する時の所作、心持ちが一番大事だといつも話すんです。心から喜びを持って掃除をする心がけは人を磨く一番の修養になるようです」

見えない所にこそ磨きをかける、名店が漂わせる気品である。

M23気品桔梗

                   *桔梗の花言葉/気品


■『武士道』の洗礼 と 「心得」

江戸時代から銀座の真ん中を突き抜ける中央通り(国道)の道幅はほとんど変わっていない。銀座と云う街は江戸時代のスケールを8割りは残していて、土地全体から江戸のDNAがにじみ出る様な仕掛けがなされているようだ。
特徴的なのは、銀座松屋に残る江戸の「武家屋敷」スケールである。現存する松屋銀座の敷地は江戸時代の武家屋敷のそれとサイズがまったく同じなのである。現在の光るラッピングファザードのガラス張りビルを見上げながら、今から400年前の武家屋敷の風情を思い浮かべてみる空間感覚は実にワクワクするものだ。
古地図を見てみると、当時の銀座はほとんどが武家屋敷と能楽流派四座(観世・金春・宝生・金剛)の屋敷で占められていた事が分かる。職人や町人、商人のくらしも居を構えていた武士たちから大いに影響を受け、少なからずその美学は街の文化として広がったに違いない。

・武士道の心得とは

さて、「武士道」と云うと、剣のさばきばかりに目が行くが、本来は「知性ではなく品格を、頭脳ではなく魂を、共に磨き発達させる」ことが最も重きを置かれた掟であったと云う。気品と云う事を考える場合、どうもこの武士道の教えの中に日本人特有の気品の備え方の基礎がある様な気がするのは私だけではないだろう。

ご存知のように、『武士道』と云う言葉は、新渡戸稲造が1900年にアメリカで出版した一冊の本「武士道」(原題/ Bushido-The Soul Of Japan)に由来する。今から122年以上前に、新渡戸がアメリカ滞在中に書き上げたものだが、数年のうちにドイツ語、フランス語、イタリア五、ロシア語、ポーランド語など世界中で翻訳され、世界的なベストセラーとなり、日本でも1908年(明治41年)に日本語訳がでた。新渡戸は旧五千円札になったことで、よく知られるようになった。

新渡戸は「武士道」には7つの徳目があると説いている。すなわち、
「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」


内容は例えば、「義」とは、正義の通りのこと。人として必ず守らなければならない道、つまり正義を指す。正しい道を追求することが目前で自らの不利益なることがあっても、「義」を重んじる事は長期的には世の中全体に取って有利に働らくことがあるとした。

また、「勇」とは、危機に遭っても動じない平常心だという。武士の間では向こう見ずな挑戦や後先を考えない行動は「勇」ではなく、むしろ「匹夫(ひっぷのゆう)として軽蔑された。勇とは「義を見てせざるは勇なきなり。(論語)」にあるように、ただ大胆に行動することではなく、【義】に裏打ちされた行動でなければならない。
勇には敵に立ち向かって行く表面的な強さと、どんな場面でも動じない平常心の2つがあって、勇気のある武士は、常に穏やかで動揺しない。ストレスフルな環境の中でメンタルを強化する事の大切さを説いている。

さらに、「礼」については、礼儀という意味だけでなく、「相手の価値は世界中の何物にも勝る」と云う考え方に基づいており、「他者の喜びや悲しみを自分の事のように感じる能力」でもあると説いている。つまり、形式的、儀礼的な、礼儀作法を身につけるだけでは不十分で、いわゆるホスピタリィの向上が表層的に上滑りする昨今の状況をみると、「礼」とはほど遠いことを指摘する。


これら7つの徳について、司馬遼太郎は自分の言葉で分り易く次のように書いている(小説『峠』の後記)。

人はどう行動すれば美しいか。ということを考えるのが、江戸末期の武士道倫理であった。人はどう思考し、行動すれば公益のためになるかということを考えるのが、江戸期の儒教であった。明治以降、大正、昭和とカッコ悪い日本人が自分のカッコ悪さに自己嫌悪するとき、かつての日本人が『サムライ精神』というものを生み出したことを考えて、かろうじて自信と誇りを回復しようとしたのである」

 司馬遼太郎の描く江戸の武士道倫理が、当時の武士階級の行動基準になってもとにしている事がよく分かる。同時に、健全に暮らす江戸時代の庶民の生き方と、寺子屋での勉強、武士と町民・商人との対等な交流を通して、相互に微妙に影響しあったのだと分析している。武士道とは武士のみの独占物ではなく、町民、庶民、女性や子どもに至るまですべての日本人が持っていた美学だったといえそうだ。

M23侍



■「徳」を目指した  銀座商い  その方程式

「武士道」が世に放たれる30年程前の明治5年(1872年)に、銀座の地にその後銀座の商いの新たな精神的支柱になる、洋風調剤薬局が店を構える。名を「資生堂」といった。創業者は外国で西洋薬学を学んだ福原有信だった。現在の中央通りと椿通りの重なる所に立ったその小さな店は、当時としては先見性のある新しいビジネスモデル「医薬分業」を確立させながら、次第に美意識を大切にするライフスタイルという新しい価値を想像して、世界企業に成長して行く。その発信地が銀座だったのである。

私は銀座の紹介をしながら【この街に美しさをもたらす理由】を求めて行くのだが、次第に銀座に息づく法則に気づくことになる。そのあり方を目に見える形で言葉にし、実践したのが資生堂三代目社長、後の福原義春名誉会長である。

『予てより銀座には「銀座文化経済」と云うべき経済圏が存在している。銀座に流通する貨幣は「円」ではなく「縁」であり、縁経済の存在が銀座の街の特徴である』

文化とは《場》であり、《場》が文化を生む。楽市楽座もそうである。これからは、企業も店ももっと文化を大切にしなければクオリティーを高められないし、生き残れない。」

それが口癖で、文化の充実が経済の発展を支え、経済の発展が進歩を助けると云う考え方の下で、街作りのあらゆる活動がこの精神に基づいて次第に活性化するようになって行く。創業145年の老舗天賞堂が、「私たちは商品を売っているのではなく、審美眼を売っている」と高らかに宣言したことがまさに銀座商いの心意気の表明だった。


・銀座の“気品”の方程式


銀座文化経済=資本主義経済+○○
さて、この○○に入る言葉は何だと思われるだろうか?

私は銀座案内のスタート時に、先ずこの問いをお客様に投げかける。その質問のかんざしを髪に挿したまま街を回遊して頂き、ゴールでその答えをお聞きする。人は、アンテナを立てながら歩くと、脳が活性化されて集中力が増しその方の心に眠る思わぬ答えが口から飛び出す事がよくあって、参加者はそれを交歓し合う。

○○の答えは、「とく(徳)」だ。


本来、中国の倫理思想に由来する「徳」は、身に付いた品性や社会的に価値のある性質あるいは善や正義に従う人格的能力を指すが、銀座では、商品を見出し、育て上げ、客に手渡す、これが商いだが、そこに、商品にかかわった人々の手仕事、営み、成り立ちまで辿って来た修練の物語を一緒に手渡す。この実行の過程こそ「徳」だという。

そうした商品たちの声を届ける為に、そのステージに相応しい商売、美しい街磨き、訪れるお客様が回遊して楽しい街にする為の路地作りに余念がないのである。

因みに「資生堂」の店の名の由来は、中国の古典、四書五経(ししょごきょう)の内の、易経の一節にある。
「至哉坤元(いたれるかなこんげん) 万物資生(ばんぶつとりてしょうず)」
『大地の徳はなんと素晴しい事であろうか』の意味である。

M23資生堂


□気品を「身につける」ために

・簡単ではない「気品」の修得ー森信三師の教え


日々の暮しの中に美学をもつことが、実はその人の人間力を上げることになるといわれている。美しく生きたいーと誰しも思う
人にそなわる人格的価値の中で最も貴いものは「気品」で、「人間の値打ちのすべて」「全人格の結晶」と述べたのは哲学者・森信三先生だ。気品と云うのはその人の「内面的香り」で最も深くその人柄を表すのだという。

先生による人間学の名著と呼ばれるベストセラー「修身教授禄」の中に胸をゆさぶる次の様な表現がある。
「花でもなるほど見た目の美しさと云う事も大切だが、真のゆかしさとなると、どうしても色や形よりも「香り」ということになりましょう。
同様に人間の人格的価値を、その人が何をしたとか、言ったとかということよりもそうした見えるものを超えて「香る気品」のゆかしさにこそ、その根本はある。」

そして続けて、
「気品の修得はいわゆる知識の修得などのようには簡単に行かない。私たちにとって、おそらく気品というものほど得難いものはない。それは、一代による心の修得だけですまないから、ということもあるでしょう。そこには遺伝とか、生まれつきとか、先天的なものが働いていて、その点に関しては、後天的な人間の一代の努力や修養だけでは、充分に得られないと思えるからです。それは先祖代々の修養の集積と云う他ない。
真の気品というものは、人間一代の修養のみでは、成就の域に達し得ないほどに根深いものであると同時に、他面また気品を身につける為には依然として修養によって心を清める以外にその道はないことは明らかである。」

長い年月、日々積み重ねる修養。銀座店主たちの生き様を見るとき、その背後にある創業者の心がけと修得の姿が浮かび上がって見える。老舗ならばこそ、代々語り継がれた精神性(躾)の刷り込みもあった事だろう。とはいえ、2代目で廃業して行く老舗の姿を見るにつけ、時代や経済が激しく移り変わりお客様の質が変わって行く中にあって、いかに創業の軸を失わずに修練を重ねる事ができるかと言う課題を含めての継続が要であるからこそ、その難しさを思わずにはいられない。おそらく、老舗が没落して行くとは、その店の気品を受け継ぐ人間がいなくなる事を意味する。そして当たり前の事だが、それを贔屓にしたお客様自身の美意識が先に失われて生じる事態でもある。だから、店と同時にお客様が共に育つ事が、文化を残すにはどうしてもなくてはならない轍なのである。

・自分の奥底を清める

気品が身に付くにはやはり修養による他ないと分ったとしても、ではいかなる修養が人間の気品を高めるに役立つのだろうか。先の「修身教授禄」から。

「気品というものが、いわばその人の背後から射してくる、人格的な光背(こうはい)のようなものとすれば、気品を高める工夫は人格の最奥所、すなわち何人も容易に窺い得ない心の奥底の曇りを払って、その乱れを防ぐと云う事ではないかと思うのです。
外側に現れた形の上からほとんど同一と見える行いにおいても、それをする人の心の曇りいかんによって、気品と云う上からは、そこに大きなひらきを生じてくるわけです。」


要するに、人間がただ独り居る誰も見ていない時にこそ、深く自分を慎むということだという。他人と相対する場合、我が心の曇りを払って、常にその心の清らかさを保つということも大切だが、しかし気品を高める事からいえば、独りを慎むと云う事の方がある意味に置いて大切な実践だと、繰り返し述べている。


ひとりを慎む(慎独)


この言葉を聞いて、いわしやの女将の「自分の音を聴きなさい」を思い出した。暮しの中で自分が立てている音、耳障りなその音の濁りは心の濁りであるだろう。確かな美意識を持って日々自分に向かい合う事の大切さに気づかされる。誰も見ていないところで、見えない所を磨き続けるとは実はこのことを指していたのだ。

混沌とした時代、新しい世の中の幕開けたらん今だからこそ、気づきを生きる糧にする為の美学を身につけたいものである。


M23リンゴ



2. 能のこころ 世阿弥の名作「山姥」レビュー集   ー9・18「坂口貴信之會」能舞台からー


台風の最中、大雨にもかかわらず銀座の観世能楽堂は、坂口貴信師の新たな挑戦を目にしたいと足を運んだ人々の静かな熱気に包まれていました。

東京藝術大学の恩師である林望先生の「山姥の世界観の紐解き」のお話の後、演じられた「山姥」能舞台は、研ぎ澄まされた技の高みを感じさせる曲舞(クセマイ)とともに、囃子方や地謡の「音」との目まぐるしい競演の見事さで、会場は興奮の渦で満たされていました。

会場を立ち去り難く、立ち話をする人々の姿を見るにつけ、文化の力が人々の心を浄め凛とさせてくれる貴重さが身に染みました。皆様から寄せられた感動の能鑑賞レビューをお届けします。

画像24


■寄せられた 能鑑賞 感動のレビュー


これまで2回だけ他の方の能舞台は見たことがありましたが、どうもいつも睡魔が襲い居眠りが常でした。今回は眠る暇がなかった。白髪の方の大鼓の大迫力には身を乗り出してしまいました。後で伺ったら人間国宝の亀井忠雄という囃子方の名人だと知り、納得。とにかく、ご高齢なのに気力がどの演者よりも優っていて、すごいなー、と。シテの方と声の張りを競っているようで、時には優っていました。最後まで目が離せない変化があって、とても面白かったです。H.I(学生)


今回は最前列の素晴らしいお席を頂いて、初めてでしたが大変な臨場感で驚き、興奮してしまいました。目の前にシテが身につけている装束の織り方まで見えます。動きもじっと見つめていると、とても繊細な様子がよく分かりました。何か、身を清められた思いがしました。M.Y (OL)


昨日の大雨に比べて今日は台風一過、悔しいくらいの晴天で富士山も綺麗でした。久しぶりに能楽堂で素晴らしい舞台を拝見出来、機会を作ってくださったことに感謝でした。
両隣の方々ともお話しに花が咲いて、共通の感想はやはり「背筋がシャンとしましたね!」でした。今更ながら奥の深い日本の伝統芸だと誇らしく思いました。
M.K(銀座ファン)


とにかく、鼓が凄かった。能楽堂の天井が吹き上がるかと思いました!格上の演者同士の掛け合いは、一期一会だと言いますが、なかなか見られないなーと感激しました。終わったあとは、なんだかとても清々しかったです。K.S(会社員)


潔い囃子、謡、仕舞それぞれの皆様の技の素晴らしさ・・・       全くの素人の私ですが、たいへん感動し、息を飲むことばかりでした。引き算を重ね尽くされたと思える舞台、雰囲気の中に装束が映え、風景も情感も感じることができました。内容はもっと学ばないといけないですね。   この度は新たに日本の芸の凄さを教えていただきました。        また、この芸を支えてこられた銀座の皆様にも敬意を申し上げる次第です。    M.H(出版関係)


山姥が橋掛かりを歩く。その異様な足さばきの傍らで、能を堪能させていただいた。林望先生が山姥とは氣のことであると説かれていたが、私には同じ一文字でも無のほうがしっくりくる。杖をついた無が眼前を歩いていった感じである。刑の執行へと向かう死刑囚の足さばきと云ってもよいかもしれない。純白な足袋が平行に動いたかとおもえば、心電図のようにひょいとつまさきが浮き、また歩む。あんな歩き方をされては、離見の見ではないけれど、自ずと私も山姥の目になってしまう。『拾玉得花』には、 女を似するは女ならず。 さるほどに女姿の有主風に真実なりてこそ、女の我意分にてはあるべけれ。 の一節があったかとおもうが、まさに山姥に成り入っておいでたのは素人目でもあきらかであった。能でも茶でも無心であれば本来の花が現れてくるとされている。これまではうつつとなく一般的な綺麗さを誇る花のすがたをイメジしてきたものの、実は意外と山姥のような姿こそまことの花なのかと感じた次第である。しかしその山姥が妙に美しかった。        高草雄士(書家)


今までお能の公演に何度か足を運んでいますが、本日の『山姥』は初見で、予備知識もなく、まっさらの状態でした。しかし、開幕前に林望(リンボウ)先生の解説があり、これは物語の理解につながる鑑賞の一助となりました。
 この作品には「哲理」があり、これだけのものを書けるのは世阿弥以外に考えられないという先生のお話には大きく肯くところでした。また、山姥とは何ぞやという疑問には≪気≫であり、あたりに立ち込めていると表現されていました。
 さて、各地に残る山姥伝説においては、醜い鬼女であり、人を襲って食らったり、作物を荒らしたり、子供をさらったりと、怖ろしい存在として描かれています。しかし、この作品では、姿かたちは異形の者ですが、そのありようは、ただ怖ろしいだけではなく、人を助けたり、時には寄り添う存在としても謡われています。
 百万山姥の謡にあわせて舞を披露し、自身を謡う山姥に徐々に心が傾いていきました。あちら側の(この世のものではない)山姥が妄執を晴らしてくれと言いながら、叶うことなく消えて行く様は圧巻でした。妄執を捨てきれないために、山から山、谷から谷をめぐり続けなければならない山姥の哀しみ、暗い井戸の底にたった一人でいるような深い孤独に胸が締め付けられました。
 坂口氏の山姥は「理」と「情」が織りなす絶妙なものでした。あたかも深い山奥に連れていかれたような不思議な感覚を覚えました。         真下美津子(演劇プロデューサー)
 

画像22


■異界の舞 世阿弥の名作 —「山姥」レビュー

世阿弥は能の本質を「心より心に伝ふる花」と表現しました。能舞台には、一本の松があるだけで、特別な舞台装置も無く、昼夜問わず照明の変化もなく、海であろうが山であろうが景色にまつわるものも一切ありません。舞台に現れるシテの台詞や謡の表現と、地謡の詞章(声)や囃子方の音から、観客が想像力を働かせてその世界観を感じるという「見えないものを見る」芸術です。それを世阿弥は「心より心に伝ふる花」と表現したのでしょう。
今「音」と私は表現しましたが、今回の「山姥」ほど、能がもたらす音楽性が天に届く程の格調を伴って観賞者に響き渡った能舞台を他に見た事がありません。機を一にした観客の皆さんが驚かれたその迫力の源はまさに「崇高な音色」への感動だったのではないでしょうか。

9/18「坂口貴信之會」「山姥」能舞台を振り返りながら、繰り広げられた名場面の一部をレビューとともにお届けします。
                         (文責 岩田理栄子)


世阿弥作「山姥」 STORY

出発地は京都。
美女がお伴を3人連れて現れ、ワキが「山姥山廻り」の曲舞で一躍有名になったツレの京の女芸能者・百万を紹介し、これから善光寺に出かけると言う。一行は、北陸路を経て越中(富山県)と越後(新潟県)の境にある境川に到着、これから山越えになるので、里人に道をたずねる。
里人は、3つの道がある、中でも上路越という善光寺のご本尊の阿弥陀が通った道があるが、険難で乗り物はおろか、高貴な女性には無理だと教える。
百万はご本尊が通った道ならば、修業の旅でもあるのだからと、上路越を選び峻険な山道を登って行く。にわかに日が暮れ、あたりが暗くなってくる。一同が困惑していると、遠くから宿を貸しましょうと声が聞こえ女が姿を現す。
女は一行を我が家に案内するが、宿を貸すにあたっては山姥の曲舞を謡って欲しいことを告げ、更にあなたは「山姥曲舞」によって都で名声を得たのに、本当の山姥のことは少しも心にかけないと恨み言を言う。
百万が謡い始めると、それを制して、夜になったら謡いなさい、そのとき本当の姿を現しあなたの曲舞の謡で舞いましょう、と姿を消す(中入り)
月光の元で笛を吹くとやがて本当の山姥が姿を現し、その恐ろしい姿に怯える百万に山姥は「山姥山廻り」を謡うように促す。百万の謡に合わせて山姥は舞い、舞い終えると山姥は本当の「山廻り」のありさまを見せて、何処ともなく姿を消すのだった。


M23月


・能だけが描ける 世阿弥の「宇宙観」

美しい詞章と抑えた謡の響き 後場「山姥」の登場


道案内の所の男(アイ)が山姥にまつわる伝承を旅の一行に伝え、後場で月の夜更けに後シテ山姥が現れるシーンは、自然描写が卓越している。謡の詞章が思わず耳を澄ましてしまうほどに美しく、見手の創造力をかきたてる。山姥となって現れる後シテ坂口貴信師の謡は、聴こえるか聴こえないかと言う程の絶妙な静けさだ。上路越の山道を、かすかな月の光が照らし出し、吹く笛の音は谷川にこだまして鬱蒼と木々の茂る山の奥ににまで染みて、様が謡の声のみによって表現される。眼を閉じて聞き入る醍醐味を感じさせてくれる。


山姥がゆっくりと舞台に入ってくる。「無」音の美しい足運びが人物の幽き風情を漂わせている。

従者 松風とともに笛を吹けば、その音色は澄み渡り、澄む谷川には、手先(てま)づ遮る、と詠まれた曲水の盃の様な月が映る。月も声も澄み切る深い山だよ、月も声も澄み切る深い山だよ。
山姥 ああ、ものすごい、深い谷だよ。ああ、ものすごい、深い谷だよ。寒林(墓場の事)出水からの骨を打つ霊鬼は、泣く泣く前世の悪行を恨む。深野(同じく墓場の事)に自らに花を供える天人は、つくづく浄土の基になった善業を喜ぶ。いや、善悪はいずれも同じ。何を恨もうが何を喜ぼうが意味は無い。一切は、目前に現れているのだ。急流の河は果てしなく続き、峻険な岩が高く聳えている。
山また山。どんな名工が、青く苔むす巌を削ったのか。水また水。誰の家でこんな碧色の淵の色を染め出したのか。

冒頭では上路越の山の険しさを謡い、この世で悪行を行った者が死後、己の墓の白骨を鞭打ち、又、善行をして天人となった者が、己の墓に花を手向けたという仏典の話が語られる。いずれ最後の曲舞(クセマイ)の場面で出てくる「邪正一如」、色即是空と同義語として布石を打っている。

ことば事典1 「邪正一如」(じゃしょういちにょ)
曲舞で、山姥は「邪正一如」という仏教の理を語る。「邪」と「正」は、一つの心から出て、邪と正になるのだから、本来は同一のものであるという。
「仏法と世法」「煩悩と悟り」「仏と人間」「人間と山姥」は、別々の対立するものではなく同一のもので、現れ方が異なるにすぎないと説いている。


神々しい仙女の様な山姥

登場した山姥の風貌について、詞章には髪は乱れた白髪で、眼は星のように輝いて、顔色は朱に塗られた軒の鬼瓦のようで、その恐ろしさを何に例えようか、と百万に語らせるが、この舞台での山姥の印象は、険しい形相とは裏腹に「何と神々しい」という印象だった。髪はほぼ金髪に近く、装束の厚板(あついた)は、綿や唐織り等で織り込まれたダイナミックな格子の幾何学模様が実にモダンで、橙、金、黄色の華やかさもあり高級感が半端ないのである。人間、 自然、宇宙に開けた叡智の化身を思わせる世界観を想像できる装束演出だと感じた。


その艶やかな装束を纏いながら、坂口貴信師の謡は驚くほど抑えた声色で舞台を彷徨う様な風情をかもし出す。そのギャップに驚き舞台を凝視してしまうのだ。
山姥の異形の顔つきに恐れを為す百万だが、山姥は「私を恐れなさらぬように」と諭す。次第に恐怖をぬぐい去り、山姥の話に耳を傾ける百万の変化が坂口師の謡の豊かな表現力で表しつつ、ストーリーが押し進められて行く。

山姥 春の夜の一時が、千金にも換られないのは、花が清く香り、陰かかったおぼろ月があるから。この度は願いが叶い、偶々会えた人に願った一曲だから、この世の僅かな時も惜しい。早くお謡いなさい。

そこには、深い山奥という情趣あふれる舞台設定、異形の主人公と華やかな女芸能者との対比が実に鮮烈に表現されていて、世阿弥の構成力の凄さに驚く。
ーー山と云うのは、塵や泥土が積み重なって起こり、天空の雲のかかる千丈の峰となる。海は苔の露が滴り落ちて集まり、波濤うねる大海になるーー

壮大な自然の摂理までもが詞章に含まれている。

茫洋とした表現の妙


山姥
 虚ろに広がる洞の谷に起こる音は、梢に響く山彦となり、     地謡 無声音(悟りの心で聞き取れる声なき声)を聞く機縁となる。古えの賢女が声を出しても響かない谷が欲しいといったのは、このようなものだろうか。                               山姥 ことさら私の住む山の家の様子は、山は高く海近く、谷は深く、名があれは遠い。                             地謡 目の前には海水がなみなみと満ち、月は真理に導く真如の光を注ぎかける。後ろには嶺の松が高く聳え立ち、風は常住安楽(楽しみの永続)の夢を破る。                              山姥 「刑鞭蒲朽ちて螢空しく去る(世がよく治まって罪人を打つ鞭が朽ちて螢になって飛び去る)                        地謡 諫鼓(かんこ)苔深うして鳥驚かず(上訴の鼓も使われずに苔むし、鳥もおどろかない)と云う古詩そのままの情景である。

遠くか近くかを知る目安もない山中で、呼子鳥(よぶこどり/郭公のこと)が心細気に鳴いている。その声が沁みてくる折々に、木々を伐る音が丁丁と響き、山はさらに幽(かす)かになっている。嶺が聳え、菩提を追い求める菩薩の心を示し、無明を表す谷の深い様は菩薩を追い求める心を示し、さらに菩薩が衆生を救い取る慈悲の心を示し、大地の底である金輪際まで及ぶ。そもそも山姥は、生まれ所在も分からず、宿も決まっていない。ただ雲水を頼りにしてどんな山奥にでも赴く。

このクライマックスに向かうシーンは、不思議な脱力感がある。たずね求める様な、驚くほど抑揚のない淡々とした舞が披露される。この目立たない場面の仕込みがその後に続く曲舞の迫力を誘うのだろうと、ワクワクしながら眼を凝らした。


画像21

・変化と美しさに富んだ 「曲舞」の迫力

地謡 隔て、隔たってきた妄執の雲の身を変えて、仮に本体を変化させ、一念を込めた結果、鬼女となって、いまこうして眼前に現れた。しかし邪正一如と見れば、色即是空の理そのままに、仏法があれば世の法がある、煩脳があれば菩提がある、仏があれば衆生がある、衆生があれば山姥もある、柳は緑で花は紅であるという色々の対のものごと全てが空である。さて、人間世界に遊ぶ時は、山道の花陰に休む山の木こり担う重荷に肩を貸し、日の出とともに山を出て里まで送る。また、ある時は、機織り娘が沢山の職機を並べた部屋の窓から入って、枝で糸を繰る鶯のように糸を操り、紡績の家に身を置く。人を助けるのが山姥だが、賎しい女の眼には映らず、鬼だと人に見られてしまうのだよ。
山姥 憂き世を嘆く、空蝉の仮の身の唐衣(からころも)の

*注【唐衣】 十二単の最も外側に裳(も)とともに着用した袖幅の短衣。奈良時代の唐式の服装である背子(はいし)が変化したもの。女房装束を構成する上衣の一つ。からころもは和歌において「着る」にかかる枕詞。在原業平の代表的な歌で知られる

地謡 払われもしない袖に結ぶ霜は、寒い夜の月日の白い光に埋もれる。その月の夜に、砧を打疲れた人が手を休める間にも、千の声、万の声となって砧が打ち続けられるのは、山姥の行ないなのだよ。都に帰り、世の人々に伝え聞かせて下さいよ。こう思うのもなお妄執か。何事も打ち捨てよ、良し悪しに惑い引きずる山姥が、山廻りするのはまことに苦しいことだよ。


クライマックスへ —超自然的な山姥の存在感を表す舞—

このクセ(曲舞)は、世阿弥の父・観阿弥が創作した曲舞に世阿弥の手が加わっているといわれている。それはおそらく、仏教、禅思想の色濃い山姥像にしているということだろう。
世阿弥山姥は、生まれた所も分らない鬼女で、雲水のように山野を漂い姿を変えて、人を助ける、鬼と云うよりむしろ仙人に近い存在である。時々人情味や風情にも心届かせる人間・山姥を感じさせる場面も心憎い。

百万による戯れの謡(山姥にとっては百万の謡をそう捉えていた)に謡われたことすらも、山姥にとっての解脱の因。謡に合わせて舞い終えた山姥は彼女に感謝し、山々を廻り行く自らの姿を見せはじめる。ここからが、抑えに抑えた後のクライマックス演能の見どころの名場面である。

ことば事典2 「山廻り」
「輪廻」(りんね) という人間の繰り返される生の苦しみの様が描かれており、ここでは、人間も山姥も同一の存在であると説いている。
 
山姥 一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むのも皆これ他生の縁であろう。まして私の名を語るとは縁が深い。山姥の名を語り、憂き世を廻り、山廻りの曲舞の一節を謡うのも戯れの芸であるが仏を讃美する事になる。ああ、お名残惜しい事ですよ。

お暇を申して、かえる山は、

地謡 春に梢に花が何時咲くかと待ちわび、               山姥 花を尋ねて山廻り                        地謡 秋は清(さや)輝きを尋ねて                   山姥 月の見える所へと山廻り                    地謡 冬は冴えゆく冷たい時雨の雲の
山姥 雪を誘って山巡り


廻り廻って輪廻を離れず、妄執の塵が積もって山姥となった、鬼女の有様を見るか、見るかと言いながら、山姥はみるみるうちに嶺に翔り、谷に音を響かせて、今までここにいたかと思うとあっという間に山々に山巡り、山また山に山廻りて去って行く。

画像24


天に届く曲舞と鼓 —幽き異界のアクロバットー

曲舞のリズムを音曲芸能としての謡に取り入れ、曲舞がかりの謡を創始したのが観阿弥で、能の謡に拍節(リズムが一定の拍の単位に従って周期的に反復する)が伴うことが大きな特徴である。大小の鼓に合わせて謡いつつ扇を持って舞う、まさにその掛け合いが見どころである。
 今回の囃子方亀井忠雄師(大鼓)の音色は見事であった。能楽堂に響き渡るカーンという固い音から入り、お囃子の基本リズムを大鼓が刻み、進行のきっかけを作る役目でもある。人間国宝が為せる極意は、鼓は「かけ声」「間」「音」の三つが命だと言う。
これまで拝見した中でも、今回の曲舞の鼓においてはこの三秘技が、これ以上無い程の黄金律で舞台上を跳ね上がっていた。卓越した天にも通じる音とはこういう音色をいうのではないか。シテ坂口貴信師の謡をひっぱり、能舞台の上のシテの舞が鼓の音の駒の上で、まるで旋回している様な迫力だった。それにさらに輪をかけて上昇気流をもたらす坂口師の謡の緩急鋭い変化と舞のめまぐるしさとに富んだその場面は、言葉には表せない程の大迫力であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー*ーーーーーーーーーーーーーーーーー

世阿弥の芸談書「申楽談儀」には、「名誉の曲舞どもなり」との表現があり、この曲舞を自ら称賛している。山姥をただの鬼ではなく、その「心」が能に登場しているのだと述べ、「鬼神をも和らげる歌の心」それこそが「幽玄」であるとその真髄にも触れている。静寂で枯淡な風情を漂わす舞台上に、人間の【輪廻】と「四季の移り変り」を描き出す【山姥】、世阿弥の名作。坂口師の能舞台によって、細やかな解釈から起伏に富んだ表現の下、大自然の象徴を含む、さまざまな要素を絡み合い合わせながらめまぐるしくなされる場面展開、世阿弥をして自ら称賛させるに値する息をのむような見事な構成の【山姥】の深みを感じる事が出来た。


画像24

          *当日会場で配布されたフライヤーから



公演情報 【MUGEN∞能】 in観世能楽堂

と き 令和3年11月19日(金) 開演午後6時 開場午後5時20分      ところ 観世能楽堂(GINZA SIX 地下3階)

演目

6時〜 【MUGEN∞能】同人による解説                狂言  「金 岡」  和泉流狂言師 野村太一郎  後見 野村萬斎  一調  「夜討曽我」 観世流シテ方 林 宗一郎               能   「石 橋」  観世流シテ方 坂口貴信 林宗一郎 関根祥丸ほか                              
MUGEN∞能は現代の能楽界にあって表現力といい、演能の迫力といい若手実力者と称賛される同人グループによる能舞台です。観世流宗家の内弟子 能楽師 の坂口貴信師、同じく内弟子で京観世五軒家の内 唯一残る林喜右衛門家の十四代当主 林宗一郎師、歴史を誇る名門 茂山千五郎家の出身でNHK朝ドラ常連の大蔵流  茂山逸平狂言師江戸時代から続く野村家 和泉流 野村太一郎狂言師という、今をときめく能役者たちの公演です。

【石橋】見どころ

中国・インドの仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師[大江定基]は、中国の清涼山(しょうりょうぜん)[現在の中国山西省]にある石橋付近に着く。そこにひとりの樵の少年が現れ、寂昭法師と言葉を交わし、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であること、この橋は狭く長く、深い谷に掛かり、人の容易に渡れるものではないこと[仏道修行の困難を示唆]などを教える。そして、ここで待てば奇瑞を見るだろうと告げ、姿を消す。寂昭法師が待っていると、やがて、橋の向こうから文殊の使いである獅子が現われる。香り高く咲き誇る牡丹の花に戯れ、獅子舞を舞ったのち、もとの獅子の座、すなわち文殊菩薩の乗り物に戻るという物語。

この能のみどころは、何といっても稀に見る絢爛豪華な舞。見る人を明るくすがすがしい気持ちで満たす。能を知らない人でもシンプルに楽しめるため、海外の賓客をもてなす演能でも舞われる。

【チケット情報】

観世能楽堂 観世ネット

MUGEN能チラシ



3 銀座情報

■ 優雅にのんびり 「銀座 飛雁閣」 

銀座8丁目の信楽通りのビルの一角にある、銀座の会員制中国料理店で、高貴なサロンを思わせる空間の中で、本物志向の高級広東料理が堪能できる名店。水・空気・音・香り・Non Chemical(無化学調味料)・低糖質・やさしいの心・そして洗練されたサービスは居心地良さを提供してくれます。テーブルとテーブルとの距離がたっぷり離れていて、ゆったりとした気分で食事時間を楽しめるのは、こんなご時世には嬉しい限りです。

会員制ながら、ランチは完全予約制のスタイルで食すことができます。おすすめは、手軽に広東料理のアラカルトを楽しめるリーズナブルな「季節のランチ」コース5500円/お一人。滋味あふれる9つオードブルは、目にも麗しく新鮮な野菜や魚介の味わいがたっぷり味わえます。上海出身女性オーナーの「健康にいい、美しくなる」という美意識がこのランチから伝わってくるようです。

9品のオードブル

自慢の点心、フカヒレスープ、コラーゲンたっぷりの豚肉料理の柔らかさなど、コースの一品一品の芳醇さにちょっと感動します。

会員制なので感染面も安心。感染対策のための人数制限、巨大な業務用協力空気洗浄機を7台設置、体温チェック、アクリル板の設置、安全対策に徹底している姿勢が信頼されている名店の証かもしれません。まだまだ、少人数でのお食事が奨励される状況ですので、こうした広い空間でお食事できるお店は嬉しいですね。ホームページでは、「お取り寄せ」などのサービスメニューもご覧になれます。


■歌舞伎鑑賞のお帰りに 「松崎商店」カフェで一服

季節を映す「三味胴」煎餅で人気の松崎煎餅が、歌舞伎座のお隣に移転。店舗名も改め「松崎商店」で、心機一転お煎餅ライフの新しい姿をお届けしています。カフェも開設されていますので、歌舞伎座鑑賞のお帰りの際など、ぜひお立ち寄りください。今、新しいお店の出店が進みレトロでおしゃれな銀座エリアとして発展中の木挽町界隈。この機会にぶらっと、秋の散策を楽しまれてはいかがでしょう。


松崎2

                *空也との和菓子コラボなども開催

松崎カフェ1

           *和菓子の新しいスタイル / 松崎ろうる

松崎3

                      *木挽町通り沿いの新店舗

2020年銀座BOXでご好評いただきました「揚げ丸」が、2021年10月1日から店頭販売(期間限定)が始まりました。なくなり次第販売終了となりますので、お求め希望の方はお早めにどうぞ。


M23ハーブティ


4. 編集後記(editor profile)

古来より日本のおめでたい席で謡われる『高砂』に、こんな詞章があります。

言の葉草の露の玉。心を磨く種となりて

これは、和歌を詠(よ)むこと、和歌を詠(うた)うことの功徳が記されていると言います。詠む人が感動や恋の心を込めた美しい言葉を相手に伝えると、相手の中でその種が育ちいずれ花となり実を結ぶ。自分にも相手にも読解力や感受性の器がないと成立しない、そうした「心を磨く」種のようだと和歌を称えています。日本人の美意識の原点に触れる思いがして、実に美しく学びの深い言葉です。能に触れると、美しい日本語のシャワーを浴びるような心持ちがしますが、その真意を得た思いがするのです。

月に2回参加しているClubhouseを使った輪読会は、自らの声を聴きながら、「生きた美しい言葉」に深く分け入ると言う素晴らしい体験をもたらしてくれています。今号でご紹介した森信三先生の名著「修身教授録」の言葉に、モヤモヤしていた霧が晴れて、「気品」の正体をはっきりと目の前に示された思いがし、その紐解きから「銀座商いの気品」を考えるきっかけにもなりました。

世情のモヤモヤの向こうに、少しずつ灯が見えるようになってきました。不透明さは私たちの判断を狂わせ、活力を失わせます。透明性を大切に自身も社会もこれから変わっていかなければならない時代が始まります。活力の原点「気品」を大切にしながら、顔を上げて進んでいきたいものです。

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

           責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子


〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊

画像7


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?