恵まれていることは罪なのか
自分がどんな家庭に生まれるかは自分の力で選ぶことはできない。
裕福な家庭に生まれた人も、貧乏な家庭に生まれた人も、それは同じ。
自分にとっての「当たり前」と他人にとっての「当たり前」は違う。
当然、裕福な家庭の「当たり前」と貧乏な家庭の「当たり前」も違う。
知る機会が無ければ、他人の「当たり前」を知ることはできない。
どれだけ裕福でもどれだけ頭が良くても、知らないものは知らないのだ。
このnoteは、恵まれていると恵まれていないの狭間でひっそりと暮らすひとりの大学生の思索。
「田舎者と貧乏人を初めて見た話」
というタイトルのブログを知っているだろうか。
そのブログは、東京で生まれ育って地方の医学部に進学した女子大生が、地方で経験したカルチャーショックについて述べたエッセイである。
簡単に内容を要約すると以下のとおりだ。
著者の女子大生は地方出身の同級生と接する中で、親の所得や職業に関する反応やお金の使い方や遊びの予算に対する考え方の違いに驚き、「他人を『金持ちだから羨む』という人に初めて出会った」や「『お金がない』という理由を遊ぶ時に持ち出すという文化に触れてこなかった」と、自身が東京で過ごしてきたときのことを回想し、その文化の違いに困惑する。
しかし、「医者はいつでも人格者で、正しくないといけない」という気持ちから、都心での生活とのギャップや田舎の居心地の悪さを大っぴらに吐き出すことができずにいた。著者はその本音を吐露するために、匿名のブログを執筆した。
この物語がフィクションなのかノンフィクションなのかは知る由もない。しかし、私はとてもリアリティのある内容だと感じた。ぜひ一度全文を読んでみて欲しい。
そして、このブログの内容がTwitter(現在はX)で投稿された際には6万件以上いいねされるほど注目を集めた。そしてこの投稿の「返信」や「引用」には様々な意見が寄せられ、著者の女子大生に対して批判的な意見も非常に多く投稿されている(批判が目立つのは「SNSあるある」ではあるが)。
批判的な投稿のうち、マイルドなものを一つ紹介しよう。
投稿者が「教養がない」と言うのは、社会科の勉強をしていれば、あるいはニュース、小説、漫画などに接していれば、中央値付近の生活水準を想像することはいくら世間が狭かったとしても可能ではないか、という意味であろう。
しかし、事前知識があれば何があっても驚かないということにはならないだろうし、特に文化というものは、集団に入り込んだり実際に住んだりしないと肌で感じることができないものだと思う。
知らないことはいけないことなのか
さて、ここで問題になってくるのは「恵まれている人がそうでない人の文化を知らないことは悪いことなのか」ということである。
SNSで批判が殺到するということは知らないことは悪いことなのだろうとひとまず仮定して話を進めてみる。悪いこととされる理由を考えたときにまず思い浮かぶのは、恵まれている人と恵まれていない人の数の差である。
厚生労働省の国民生活基礎調査(2022)によると、世帯の所得が1200万円を超える世帯は10%にも満たない一方で、400万円以下の世帯は47%にものぼる。
要するに、恵まれていない人の「当たり前」の方が多数派であることから、<普通>の生活水準と主張する正統性が生まれてくるということである。<普通>から外れるほど裕福な生活水準は異端とされ、<普通>を知らないのは悪いことだとされるのだ。
知らないことが悪いことか否かという議論を抜きにしたとしても、恵まれている人が<普通>の生活水準を知るべきだとする主張もあり得るだろう。その根拠は、私の方では2つ考えつく。
第一に、恵まれている人はその経済力や才能を生かしてエリート街道を歩み、将来的に社会を作る側の人間になる、社会を作る側になるからには社会のことを良く知らなければならない、というものである。政治家が度々「庶民感覚がない」と批判される際に用いられる論理はこのようなものだろう。
第二に、恵まれていない境遇にある人を悪気なく傷つけることがあるからというものである。というのも、金持ちアピールやマウンティングしたわけでもないのに相手が勝手にイライラしている、ということが非常に起きやすい。
この理屈を徹底したとしても「恵まれていることは罪だ」と言い切るには不十分だし、当然「知らないことは悪いことだ」ともならない。なぜなら、知らないという状態はそもそも恵まれている人本人の責任ではない、という話が可能だからである。
子どもは小さいうちに家庭での「当たり前」をまず初めに<普通>だと学習し、その次には学校での「当たり前」を<普通>だと学習していく。そして親は「子どもにできる限り良い環境を与えてあげたい」という極めて自然な発想のもと、家庭と学校の両方で恵まれた環境を用意しようとする。すると裕福な家庭に生まれた子どもは、自分の知る<普通>の水準が自然と高いものになる。
教育社会学者の志水宏吉は、親(家庭)が所有している種々の「富」と、子どもの教育・人生に寄せる「願望」によって人々の人生が基礎づけられている今日の社会を、メリトクラシー(能力主義社会)の発展型としてペアレントクラシー社会であると位置付けた(志水 2022)。
ここまで色々と書いてみたが、恵まれている人が一般的な<普通>を知らないのは親や周囲の環境など本人以外の要因があるのだという点に目を向けてもらえればひとまず十分である。
誰の何に対しての罪悪感
そもそも「恵まれていることへの罪悪感」はなぜ生まれるのか。
例えば、超絶イケメンは、自分が恵まれた顔立ちをしているという自覚はあっても、イケメンであることが悪いことだとはたして思っているだろうか。
あるいは、他人に「あなたって恵まれてて羨ましい」と言われたときに、「確かに恵まれているかもしれないけど、私だって大変な時もある…!!」と言い返したくなる場面は多いのではないだろうか。
恵まれていることへの罪悪感は、①自分は恵まれているという自覚がある ②恵まれていることがどこか悪いことだと思っている、という二つの条件が揃わなければ生まれない。そして、①と②の両方が揃うというのはホイホイ起きるものではない。
条件①の時点でなかなか難しい。仮に誰かと比較した時に相対的に恵まれているという状況は認めることができても、自分のなかの基準に照らして「自分はまだ満たされていない」と感じているのであれば、「①恵まれている自覚」には不十分である。他者と比べることなく自分は恵まれていると思うことができていなければ、「あなたって恵まれてて羨ましい」と言われたときに「私より恵まれてる人いるんだから、その人らに言ってよ……」という気持ちが浮かんでしまうだろう。
条件②は少し丁寧に考えよう。自分が恵まれていることは「誰の」「何に」とって悪いことなのか。罪悪感は許してほしいという気持ちの表れである。とするならば、自分が恵まれていることは「誰に」「何が」申し訳ないのか。
「誰」は、当然「恵まれていない人」だろう。「何」は、色々と考えられるが、ここではできるだけシンプルに二つに整理しようと思う。二つである理由は、悩みや葛藤は「Aという感情とBという感情の対立」という図式に落とし込めることがあるからである。
他の人より努力や苦労が少ないのに他の人より良い思いをしていることによる不公平・不正義といった気持ち(ズルしている感)
ズルしている感はあるものの、しかし他の人と同じ苦しみを自分が味わう義理は無く、だからといって他の人を助ける力を自分が持っているわけでもない、という気持ち(同じになれない感)
自分が恵まれているという状態は不公平だから悪いことだと思い、自分がその悪い状態を解消することができないので恵まれていない人に申し訳なく思う。この二つの感情のジレンマ、自己矛盾が罪悪感の核になっている。
つまり、ジレンマの解消、自己矛盾という名の無限ループからの解放を願う気持ちこそが「罪悪感」なのである。
罪悪感との付き合い方
罪悪感と向き合うほど不公平な状況を解消できないことの申し訳なさや無力感が募る。しかし、恵まれた境遇を自覚していて誠実でいようとする限り、向き合わないという選択はできない。
恵まれているという自覚は呪いだ。
自分の持つ恵まれた才能や環境を使って自分のために何かをすることが後ろめたくなる。今の自分の幸せは自分の力で手に入れたのもなのか分からなくなる。自分が自分の人生を生きていないような気分になる。
一時その呪いから抜け出すことができたとしても、他人から「お前は恵まれてるから良いよな」と言われた途端、自分がどれだけ高く空を飛んでいたとしても、その人が這いつくばっている地平にまで一気に叩き落される。
そしていつの間にか、誠実でいようとすることが自分を苦しめることになる。他人のことなど気にせずに、図太く生きることができたら…と考えるようになる。
私が思うに、自分が恵まれていることに対して罪悪感を覚える人というのは、他人の痛みを解ろうとしている人なんだと思う。「助けたい」を越えて「助けなければならない」という気持ちなのかもしれない。
どれだけ助けようと思っても、どれだけ他人の痛みを解ろうとしても、本人の気持ちは本人にしかわからない。痛みを感じる身体が違えばこれまで歩んできた人生も違うため、これは当然のことだ。
他者を理解することに完全はない。そして終わりはない。
だからこそ、理解しようとする努力を続けなければならない。
……ここだ。「理解しようとする努力を続けなければならない。」これは本当にそうなのか。
私はこう言いたい、続けなくてもよいと。
より詳細に言うなら、あなたは続けなくてもよい。
もちろん続けてもよい。
理解し続けようとすることは、恵まれていない他者を「恵まれていない人」と対象化し続けること。それは、その人の主体性を蔑ろにしているということになりはしないだろうか。
そして同時に、恵まれている自分を「恵まれている人」として対象化し続けていないだろうか。つまり、自分の「恵まれている人」の部分以外を脱ぎ捨てようとしているのではないだろうか。
罪悪感を背負い続けようとすることは「恵まれている人」を演じ続けようということだ。あえて言おう、それは嘘つきで不誠実ではないのか。
演じるのに邪魔な自分の一部を取り除いて、きれいな「恵まれている人」になろうとしている。邪魔な自分の内面を取り除くというのは、これもあえて言うなら思考停止だ。理解し続けるという態度からは最も遠い。
罪悪感を持つことは自己矛盾で苦しいことだが、同時に安定感がある。なぜなら無限ループは不変だからだ。そして無限ループは自分を現状維持に押し留める理由までも提供してくれる。現状維持は簡単だ。勇気も行動も必要ない。
罪悪感に浸からない。
今まで向き合ってこなかった自分の内面に向き合う。
これまで自分がやってこなかったことに挑戦すれば、今まで向き合ってこなかった自分と向き合うことになり、罪悪感とよい距離感で付き合えるようになるのではないかと思う。
これは余談だが、「恵まれた能力を他人のために使いましょう」や「もらった恩を社会に還元しましょう」といったメッセージは聞き飽きた。それは恵まれていることに罪悪感ある人が一番よく知っていることであり、それゆえにジレンマ・自己矛盾に陥るのである。
「恵まれた能力を他人のために使いましょう」は大事な教訓だ。恵まれているのにその自覚がないという人には伝えていくべきだろう。しかし、恵まれている自覚がある人にとって、それは呪言そのものである。「お前は恵まれてるから良いよな」と言われるのと大差ない。
罪悪感を感じているというのは、「恵まれている自分」VS「恵まれていない他人」の二分法から逃れられないでいるということなのではないか。であるならば、自分/他人をなす総体の一部分を自分で恣意的に切り取っている可能性に目を向けることで、罪悪感から抜け出すことができるのではないか。
現状打破は難しい。勇気と行動が必要になる。
新たな挑戦に一歩踏み出すあなたに幸あらんことを。
恵まれていることは罪なのか
この問いへの明確な答えを私はまだ持ち合わせていない。今回のnoteが「罪悪感」という切り口からこの問いに答えるための補助線になっていることを切に願う。
ただ、社会の中に実在する「恵まれている人」VS「恵まれていない人」の対立にどのように向き合うか、格差をどう解消するのか、他者理解に終わりがないなら結局どうすればいいのか、といった話はできていない。いつか続編を書かなければと思う次第だ。
さて、このnoteの締めくくりはある歌に託そうと思う。いい曲なのでぜひ一度聞いてください。
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