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あの人

ビオレの化粧落としがあと3枚になった。
拭き取るタイプの化粧落としは、あの人の家の近くにあるコンビニで買った。10枚入りのその化粧落としが無くなったら、この名前のない関係は終わりにしようと、残り5枚で決めた。
付き合うきっかけはちゃんと告白であるべきだという理論は持っていない。だけど、この宙ぶらりんな状態は、やっぱり29歳の年齢的に都合の良い関係に考えてしまう。
今日もお酒を一緒に飲んで、彼の家に行く。
また一枚減る、あと2枚と瞼を閉じて無言でカウントダウンする間に、ことは進んでいく。

あと一枚を昨夜使った。そして空になったそれ。朝早く起きてバレない程度に、部屋を少し綺麗にして、コンビニで一緒に買った歯ブラシと一緒に捨てる。連絡先もその勢いで削除した。10回の中に私物をおくほどの図々しさは持ち合わせていない。
あの人が起きる前に出ていく。よく眠るあの人は何も気付いていない。

朝6時半、ドアを静かに閉めて出ていく。
もう来ることのないこの部屋と、もう触ることのないドアノブ。外の空気は冷たくていつもより、乾いている気がした。

後ろ髪が引かれていないと言えば嘘になる。この坂道も階段も途中に横切る公園も。全て最後。帰りに家のドアを閉じるとき、少しだけ音を立てて出ていくことで気付いてもらおうかと思った。その考えが自分の中で清々しくない気がしてやめた。勇気がなかっただけなのに。

電車に乗り込むとき、瞼の上が熱くなり、わたしはこんなにあの人を想っていたのかと実感した。連絡先をなぜ消してしまったのかと、駅のホームで後悔するなんて。きっとあの人は自分からは連絡をくれないだろう。
いつかわたしは10枚の化粧落としを使っているうちに、誰かの1番になれるのだろうか。
電車を乗り込む時、携帯が揺れた。携帯を見て、そのまま、もう一度ホームに戻った。
ベンチの上で泣いてしまった。

走って"彼"に、会いに行かないと。

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