見出し画像

『君たちはどう生きるか』の物語構造と次の世代への問いかけ

本論では宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』を題材に、映像がもたらす記憶との接続と、宮崎駿自身の記憶へのアプローチとテーマ性を論じることを目的とする。テーマ性に関しては、本作品以外の宮崎駿監督作品にも触れる事になる。
 
 一般的に私たちは記憶というものを持っている。頭の中にそれがどの様な形で記憶されているのかは科学の領域の話だとしても、ふとした瞬間に過去の出来事や感情にアクセスした経験は誰にでもあるだろう。そのきっかけは、ひとつの映像や音や匂いによるものであることもある。そのようにして、普段は表面に出てこない記憶が引っ張り出され、その時の感情を追体験させる。という事が映像にも出来るという事だ。例えば『君たちはどう生きるか』の中でこんな場面があった。
 
 主人公の少年とアオサギの出会いのシーン。一体このアオサギはどういう存在なのか。主人公の少年の心象に沿いながら、物語が進む。スクリーンを見ている我々は、この時すでに少年の心と同化させられていて、意地悪なアオサギに対する不快な感情や、不可思議な行動に対する警戒心を共有している。また主人公の少年が父親の再婚相手に対してとる、礼儀正しさをまとったよそよそしい態度。幼少時代のかすかな記憶が蘇る。大人になると、相手にそれと気づかせないくらいの心配りは出来るものだが、少年は表現が無骨で、粗削りであり、自分の気持ちをうまく隠せないし、時間がかかってしまう。そのような感情や態度は幼少時代、誰もが経験したのではないだろうか。
 
 この様に、この映画は見ている人の心を少年の心にぐっと近づけておいて、物語は現実世界から異世界へと進んでいく。作品の語り手は少年であるが、父親の再婚や戦争など、宮崎駿自身の幼少時代の体験も織り交ぜられ、宮崎自身の体験をベースにした物語であるとも言える。
 
 宮崎駿監督の記憶へのアプローチとしてこんな言葉がある。

“人間一人一人の体験とか記憶を形成しているものって、自分の記憶にあるものと、思い出せないけど忘れていないもの、さらにその奥に埋もれていて深い、土台の石になっているような何かがあって、DNAの記憶やら何やらも含めて、先っぽの方は、そういうよくわからない、どこか得体のしれない所から繋がっているんじゃないかと思えるんです。”

『折り返し点―1997~2008』宮崎駿

この様な考えはユング心理学の集合的無意識と呼ばれるものと近い。宮崎はこうも語る。

”ただ映画をつくっていると、表側のことだけじゃなくて裏側のことばっかり考えてるでしょ。自分の深層心理のほうに扉を開けていく。そうすると突然道が繋がって、ああ、こういうことが自分が本当にやりたかったことなんだ、ってわかったりするけど、それがこの世で全然通用しないことだったりするんですよね。”

折り返し点―1997~2008宮崎駿

 大雑把に分類すると、宮崎駿の主要作品は二つのテーマ性を持っている。一つは『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』に見られる”人と自然との共生”や『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』に見られる”人と神との共生”の様に「人類全体に問いかけるテーマ」。もう一つには『魔女の宅急便』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』に見られる”どのように生きるべきか”という「個人的な成長に関するテーマ」がある。本作品のテーマはどちらかと言えば後者になるのだが「君たちは、」と問われると前者も併せ持っている。死んだ母親を死後の世界に探しに行った少年が、そこで出会う人物や出来事を通し成長し、新たな態度で、生きづらい現実に戻っていく。ここに”現世とあの世の共生”というもう一つのサブテーマが立ち現れてくるのだ。
 
 本作品の映像も、様々な世界を行ったり来たりし、混沌としたカオスの中にいるようだ。しかし、まるでそれぞれのひとつのシーンが詩のように展開していき、自分自身の記憶と映像がダンスを踊りながら、この作品の深い意味での理解を促された。
 
 これから宮崎自身が向かっていくであろうあの世とは、宮崎の言う「得体の知れない所」であり、そこに向かってどう生きるか。という自分自身への問いかけであり、またこの厳しい現実世界で生きていく若い世代に対する問いかけでもあるように感じられた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?