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奔放な独身女は妻の敵か

「彼氏ができたんだよね、」目黒駅前のスタバでわたしは親友に言った。彼女は「え、よかったじゃん!」と晴れ晴れした顔をした。わたしは続けた、「二人。」彼女は一気に顔を曇らせた。「ねえ、あなたのゴールはどこなの?」わたしと彼女の、10年を超える付き合いのなかでも、まあまあな厳しい声だった。それは、親友を心配するからだろうか。親友の幸せを思うからだろうか。いや。わたしのこのスタイルが、彼女が信奉すると決めた一夫一婦制度への脅威だからではないだろうか。

わたしは彼女が大好きだ。今も、今までも。それでもやはり、「結婚」というもののとらえ方に、わたしと彼女では、大きな開きがあったことは認めざるを得ない。

「結婚した女」になること、「結婚」すること、強い結束で誰かと結ばれること、誰かと家族を築くこと、二人で歩むと決めること・・・その全部が彼女にとってこんなにも強い意味を持つものだったとは、彼女が結婚するまで気づかなかった。想像を超えていたといったほうが正確かもしれない。

ささいなことなのだ。たとえばわたしと二人で会う時でも、店の予約を、夫の姓でする。何をするにも夫の姓を名乗る。それは彼女の決意の表れなのだと思う。きっぱりと、彼の妻として生きていく決意をして、絶えずその決意表明を行う作業なんだと思う。大袈裟に捉えすぎだろうか。これも、結婚後も姓を変えない働く女たちの中にいすぎたせいだろうか。が、やはり、彼女が夫の姓を名乗るスタンスは、明らかに、結婚後も旧姓で仕事を続ける女たちとは、自分は違うという宣言ではあるはずだ。

そうだったのか。そんなに、結婚が大切だったのか。率直に言ってそう思った。

不倫もした。二股もした。二股もされた。ワンナイトも多々あった。二人の歴史だ。そうやって、数多の恋愛でめいっぱい傷つきながら、二人で瘡蓋を数えて笑い合って生きている実感を共有してきた。

でもそのすべてと決別して、彼女は結婚したのだ。その決意を見せつけられるようなのだ。いつ、会っても。

そして先日、おなかの大きい彼女に会ってわたしは、これまでと変わらないノリで、「彼氏ができたんだよね、二人」とあけすけに笑ったのだった、なんて、なんて間抜けだったんだろう。彼女は厳しい声で「何を目指しているのか」とわたしに訊いた。

しどろもどろに要領を得ない説明をした挙句、わたしがようやく「二人のうち結婚する未来があるほうを残そうと思っている」と言うと、彼女は得心した表情をした。「ああ、そういうことなのね。わたしが思ってたよりずっとあなたが未来をちゃんと考えていて安心した」

結婚するつもりがある、結婚のために二人の男の間で揺れている、それなら、許せるということなのだろうか。

少し悲しかった。悲しかったということに気づくまで数日かかった。

わたしは何も、倫理破綻したアバズレを推奨しているわけではない。浮気で人を傷つけることを容認しているわけでもない。ただ、ただ「一人とお互いに愛し合う」ということがなぜかわたしには難しいのだ。間違った男を愛したり、愛せない二人と身体を交わしたり・・愛しあうことだけでこんなに困難なのに、そのうえたった一人と将来を誓い合うなんて、いまからアベンジャーズに入れてもらうくらいの芸当に思える。

これまで同じような恋愛をしてきた、同じようなキャリアを歩んできた、親しい女性が、結婚という大義を、錦の御旗を、振りかぶって掲げているように見えて、なぜか圧倒されてしまうのだ。

わたしは、制度結婚の、一夫一婦制の、反乱分子に見えるのかもしれない。あまりにも無力だが。

そんな出来事があった少し後に、たまたま佐久間裕美子さんの”My Little New York Times”を読み始めた。2017年7月5日からの1年間にわたる彼女の日記の書籍化なのだが、2017年10月頃、彼女のなかで「複数主義(ポリアモリー)」「シスターフッド」「女の敵は女」「#metoo」「セクハラ問題」このあたりのトピックがぐるぐるかき混ぜられてまさに調理中、という感じで非常に面白いし、うん、心を打たれた。

世界でこんなふうに颯爽と活躍している素敵な女性の先輩が、こういうふうに、「違う生き方を選ぶ女性と女性」という視点でぐるぐるしていることに、けっこう、励まされた。「女の敵は女なのではないか」、はかねてからわたしも思っていたことだったし。自分の周囲が結婚していけばいくほど、「女は分断される運命の生き物」、「どうあっても生来、チョイスした生き方を比較してしまう生き物」だという感を強めていたし。marisolでは「じゃない側の女」なんて連載も始まっていることだし。

女どうしの連帯?女の敵は女?

難しい。ただ、映画『メアリーの総て』を観て思ったことは『未来を花束にして』の感想に近くて、これほど多くの女の闘いが連なり、いまのわたしたちの地位があるということ。女の先輩たちが、傷つきながらも屈することなく、連綿と闘ってきたその末裔として、わたしがこうしていま、大きな会社で、男の上司にも当然のように生意気な口を利けているということ。まあそれは卑近すぎる例だけど。生意気な口を利いていいかどうかは男女の問題とはまた全然別の問題だから混ぜないでください。って自分で思ったけど笑。

ねえ先輩方。この現代を生きる女にとってさえ、「女としてどう生きるか」はまだまだ難問です。

なんてくだくだと思う、クリスマスの深夜であった。

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