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下町音楽夜話 Updated 006「暗さの価値」

昨今の新型コロナウィルス騒ぎでインバウンド需要が激減し、銀座あたりの店舗は非常に厳しいことになっているという。昔は随分遊びに行ったこの町も、最近は外国人が多すぎて居心地が悪くなってしまい、すっかり足が遠のいてしまった。ワインの買い出しや本屋を覗きに行くときだけになってしまったが、それでも銀座は好きな町だ。諸所に歴史を感じさせるアイテムがあるし、そもそも町に品格というものが備わっている。何とか頑張って欲しいとは思うが、もう昔と同じか同等レベルに戻ることは難しいのだろうか。ではいつの時代に戻って欲しいかなどと勝手なことを想像してみると、やはり昭和末期、1980年代が好ましいのは自分だけではあるまい。

もっと昔、銀座で森永ミルクキャラメルの球形の広告塔と不二家のペコチャンの巨大なネオンサインが夜空を照らしていた頃は、随分空が広かった。大通りを路面電車が行き交い、華やいだ雰囲気は、まさに東京の中心と言う風情を持っていたはずだ。最近では超高層ビルも増え、東京全体が広告塔のみならずビルの照明で明るくなってしまい、とりわけ銀座が明るいと感ずることはなくなった。東京にはもう本当の暗闇など存在しないのかもしれない。東日本大震災の直後の暗さは忘れられないが、これまで度が過ぎていたのではという感覚もあることはあった。

御多分に漏れず、現在の江東区あたりで本当の暗闇や無音は存在しない。感覚が麻痺して本当の暗闇や無音がどんなものかを忘れてしまっていると思うことさえある。たまに田舎の宿などに泊まると、夜中に目が覚めてしまうことがある。絶対的な闇は恐ろしいものだと思うし、同様に絶対的な無音は不気味なまでに静かなのだ。子どもの頃、遠くを走る列車の音が汽笛混じりに聞こえてくると、妙に不安になった記憶がある。今は別に夜そのものが怖いわけではないが、トラウマのようなものなのか、夜の闇や静けさは恐怖にリンクしている。ひょっとしたら人間の本能的な部分でそういう感覚が残っているのかも知れない。

現在自分が住んでいるマンションはすぐ近くに首都高速7号線が走っており、夜中でも車の音が絶えず聞こえている。ボーッという、音とは認識できないような音が常にしているのである。また伊藤園のお茶缶の巨大な広告塔が近くにあり、夜には薄暗い照明の中に浮かび上がっている。高速道路からもよく見えてちょうどいい目印になるし、あの程度の明るさで工夫次第では十分インパクトのある宣伝になることが面白い。騒音は公害として十分に認識されているが、光害は天体観測でもするのでなければ、なかなか認識されない。まちが暗いことは防犯上好ましくないが、明るすぎると疲れることもある。何事もバランスが大事だ。

閑話休題、プログレッシヴ・ロック史上に巨大な足跡を残してきた偉大なるグループ、ジェネシスは他と一線を画した経歴を持っている。大きく前期と後期に分けられるが、1970年代前半、一気に知名度を上げた前期には、かのピーター・ゲイブリエルが在籍していた。そもそも彼が中心になって結成されたグループだけに、当のフロントマンが脱退した時点でグループ名を変えてもよかったのではないかと思う。しかしジェネシスは何とか存続するものの、続いてギタリストのスティーヴ・ハケットも脱退する。プログレ好きが好む暗さを十分に内包したこのギタリストは、前期ジェネシスのサウンドの要でもあり、後のソロ・アルバムでも異常なまでの多様さと、ときおり見せるジェネシスらしさが尋常ではないものを感じさせる。グループ創世期からのメンバーではないが、グループの一つの頂点をもたらした重要な存在であったと考える。

ヴォーカリストとギタリスト、強力な2枚看板を両方とも失ったメンバーは、その後ドラマーのフィル・コリンズをフロントに立たせるという通常考えられない大改革を施し、音楽的にも大きく方向転換を図る。一般的に受け易いポップなメロディ・センスをプログレッシヴ・ロック的なストラクチャーの中に散りばめ、前期以上の商業的成功を納めたのは残された3人の努力の結果だろうし、この3人も含め、結局は全員が只者ではなかったことが後々知れる。

特に脱退後のピーター・ゲイブリエルは、1986年の「SO」の世界的大ヒットで頂点を極めるまでになるのだから、世の中解らない。前期ジェネシスの頃の彼は、その容貌から暗黒世界の住人のように異質なものを感じさせていた。シアトリカルという形容がよく使われていたが、あの目はそんな生やさしいものではない。演劇であのような狂気を演じられるのであれば、もう世界一の役者ではないか。あれは演じて出せるものではない。また、社会的なメッセージ性の強いものが多い彼の作品群は、一様に質の高さを感じさせる。特にドイツ語ヴァージョンをリリースした作品は、その発音の独特な響きが一つの個性をかたち作っており、言語が持つ音の特性を音楽に活用した稀なケースであり実に興味深い。しかし、物語があるように感じさせるジャケット写真はデザイン集団ヒプノシスが担当しているものもあり、芸術性の高さは認めるが薄気味悪いものも多い。自宅のリビングあたりに置いておくとカミサンに叱られる。

さて洪水を経験した方は下町江東区界隈には大勢いらっしゃると思う。自分の場合、全く別の場所で経験したことがあるのだが、そのとき、思い出してしまったのがピーター・ゲイブリエルの顔だった。夜来の豪雨の後で雨は止んでいたのだが、青空が見えるような明るい状況で、じわじわと水かさが増してきたときの恐怖感は、経験した者でなければ分からないだろう。自分は車をダメにしただけで済んだが、ひざ上あたりまで水が来たときの絶望感を音で表したら、ピーター・ゲイブリエルの音になるのだろうか。妙に透明感があり明るいメロディなのに、聴き終えると不気味な不安感だけが残る。

一方後期ジェネシスは、ポップな曲と高い演奏能力で一世を風靡した。フィル・コリンズのヴォーカルは、ヘヴィな内容の暗い曲調のものでさえ、後味が悪くない。「ママ」や「ザッツ・オール」など、いくら暗い曲を演奏しても、人柄が滲み出てしまうのか、歌い終わったあとに爽やかな笑顔でいられるのである。このポップ過ぎるジェネシスは、プログレッシヴ・ロックのコアなファンからは受け入れられなかったが、チャートで見る限りむしろヒットしている。その存在が世界規模のビッグ・ビジネスに成長したにもかかわらず、プログレッシヴ・ロック専門店では安値で叩き売られていることが面白い。

こういった音楽やオカルト映画の世界以外には少ないだろうが、暗さや後味の悪さが価値として問われる世界でもあるのだ。無節操に多種多様な音楽を聴く自分にとっては、ジェネシスの前期と後期、いずれも捨て難い魅力がある。ある程度リアルタイムで聴いてきた身としては甲乙つけ難いのだが、前期はやはり気分が乗ったときにしか聴けない。一方で後期は聞き流せる。その分愛着は前期に感じているのだが、聴いて楽しいのは後期である。自分はそれなりに暗い人間である。

遠出の帰り道、自宅に近づくと伊藤園の巨大なお茶缶が見えてくる。ボッと暗闇に浮かぶように見えるこのお茶缶の広告塔を見て、ホッとする人間はあまりいないかもしれないが、自分の場合は安らぎの場所に帰ってきたことの象徴でもある。何とも言えない、安堵感のようなものがあるのだ。特に長距離を運転してきた後などは一層強く感じたりする。人間の感覚は実に曖昧なものだろうが、視覚にしろ聴覚にしろ、敏感に快適か否かを感じ取っている。適度な明るさの部屋で聴く心地よい音楽は、何にも増して安堵感を覚えるものである。最近の表現でいくと癒されるというのだろうが、この言葉はあまり好まないので、ここでは使いたくない。音楽ばかり聴いている自分の自己弁護になるが、音楽は快適なインテリア同様、それなりに安定作用を持っているのである。

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(本稿は下町音楽夜話092「暗さの価値」に加筆修正したものです)

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