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下町音楽夜話 Updated 018「サムシング・クール」

やれやれ、久々の下町音楽夜話のアップデートです。突然ジューン・クリスティの「サムシング・クール」が聴きたくなったのですが、「この盤はキャロル・キングの『つづれおり』と関係が深いんだよな」と思いつつ、どういった関係だったか全く思い出せず、Googleで検索してみました。そうしたところ、なんと昔書いた自分の文章が一番上に出てきてしまい、それではアップデートしておくかと相成りました。てにをはを修正しただけに近いものです。よろしくお願いいたします。

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ジューン・クリスティというジャズ・シンガーをご存知だろうか。1940年代から1950年代に活躍したクール・ジャズの名手である。ケントン・ガールズと呼ばれる、スタン・ケントン・オーケストラが輩出したシンガーの一人で、残る2人、アニタ・オデイとクリス・コナーも、ヴォーカル好きには人気の高いシンガーである。そもそも、このオーケストラは、多くのクール派、ウェストコースト派の白人ジャズ・ミュージシャンを輩出しており、1940年代後半には世界に冠たるモダン・ジャズ・ビッグ・バンドだったのである・・・そうだ。自分はビッグ・バンド・ジャズもジャズ・ヴォーカルもあまり得意ではないので、当然ながらいろいろ調べて得た知識の受け売りである。

ところが、ひょんなことから、彼女の「サムシング・クール」というアルバムを購入し、ハマってしまったのである。というのも、キャロル・キングの名盤「つづれおり」などをプロデュースしたことで知られるルー・アドラーのインタビュー記事を読んだところ、「つづれおり」を制作するにあたり、最も影響を受けたアルバムが、このジューン・クリスティの「サムシング・クール」だったということなのだ。大好きなアルバムの制作時に、多大なる影響を受けたアルバムがあると知れば、聴かないわけにはいかない。早速、インターネットで注文してみたのである。そして、あまり予備知識を入れる余裕がないままに、また先入観を持たないで聴いてみたかったこともあり、いきなり聴いてみたのである。

そして、どうして、これが「つづれおり」の制作時に影響を与えたアルバムなのか、さっぱり分からないまま数回繰り返して聴き、そんなことがどうでもよくなってしまった。「つづれおり」は「つづれおり」、「サムシング・クール」は「サムシング・クール」でいいではないか。いずれも、よくできたアルバムだ、という考えに至ったのである。実際に、似てないのだ。どうやら「曲の順序とつながり」というものを意識させられたということだが、音楽性もヴォーカル・スタイルもまるで異なるこの盤で、曲の順序もつながりもあったものではない。どうして影響を受けたとルー・アドラーが語ったのかは、いまだに疑問だが、確かに素晴らしいアルバムであることは理解できる。しかし、考えれば考えるほど、正反対のものを目指しているアルバムのように思えてならない。

さて、面白いのは、このアルバムのボーナス・トラックだ。もともと10インチ盤でリリースされ、12インチのアナログ・レコードでも、そのまま発売されただけに、11曲33分強と短いアルバムである。そのCDのボーナス・トラックが、なんとステレオ版の同一曲が全て収録されているのである。何だ、ビートルズのキャピトル・ボックスと同じタイプかと思いきや、実は全然違う録音なのである。よくよく調べてみると、1955年にモノラル録音でリリースされ、大ヒットしたこの盤は、ステレオ録音が一般的になった1960年に再録音されていたのである。アナログ・レコードのときには、全然違うジャケットを用いてはいたものの、別の録音であるということを一切アナウンスしなかったものだから、その後混乱を招くことにもなったという。面白いことをするものだ。

しかし、タイトル・チューン「サムシング・クール」の2つのヴァージョンを続けて聴くと、違う録音であることは一目瞭然である。ヴォーカルのクールさがまるで違うのである。オリジナル・モノラル・ヴァージョンは、まさに奇跡の一瞬を捉えたかのような、クールネスの権化である。数年歌い続けたヒット曲は、同じように歌えといわれても、歌が上手い下手ではなくて、無理だったということなのだろう。演奏は見事だ。あまり音数の多い演奏ではないので、各楽器の音がはっきりと聴き取れるが、その違いが区別できるものではない。演奏家などが聴けば判るのかも知れないが、自分の耳には、実に見事に再現したものだと響いた。

ジューン・クリスティは、早い時期にこの「サムシング・クール」で大ヒットをとばし、固定ファンに恵まれるが、その後は酒に溺れ、凋落の一途を辿ったようだが、それはもっと良い方向で解釈すれば、ヴォーカル・スタイルがどんどん変化していったということで、時代ごとのヴォーカル・スタイルを比べて楽しむこともできよう。しかし、あのオリジナルの「サムシング・クール」を再現することは不可能だ。あの涼やかで、凛とした、それでいてパワーのあるヴォーカルは、特別の輝きがある。確かにこれはワン・アンド・オンリーのクールネスの最高峰の一曲である。他にも「イット・クッド・ハップン・トゥ・ユー」や「朝日のようにさわやかに」などは、一聴で耳に染み付いて離れなくなる。ジャズ・ヴォーカルに疎い自分にですら、この盤の価値は歴然としている。

それにしても、「つづれおり」との関係が気になる。あまりにナチュラルなキャロル・キングの歌声は、むしろザラッとした麻か、柔らかい木綿のような質感なのだが、ジューン・クリスティのヴォーカルは、たとえるなら、やはり絹だろう。あまりにスムーズで、ヒヤッとした手触りそのものだ。音質、声質ではなく、「サムシング・クール」の曲の順序やつながりを意識してアルバム制作をしたところが、出来上がったものがあの「つづれおり」では、随分イメージが違うではないか。1970年代を代表する、シンガー・ソングライターの大傑作アルバムは、あまりに時代の要求にマッチしていたがために、リスナーのそれぞれの人生を彩る色彩が強すぎたのではなかろうか。

キャロル・キングのアルバムの中では、1972年に発表された「ミュージック」も、シンプルなメロディの佳曲が多く、大好きなアルバムだが、やはり「つづれおり」は、時代との相関性なども含め、別格であることを認めざるを得ない。結局のところ、時代が違っていたのだろうか。第二次世界大戦が終わり、栄華を極めていた強いアメリカが、一服の清涼剤として求めたクールネスと、ヴェトナム戦争の泥沼の中で、自己を見つめ直すような内省的な内容で、しかも目の前に現実を突きつけるナチュラル志向の盤とでは、あまりに違って聴こえたことだろう。頭を冷やして、自分自身を見つめ直す格好の材料となった「つづれおり」も、時代が求めたクールネスであることには変わりないのだが、その強烈な個性ゆえに、作品が一人歩きしてしまったのだろうか。決して「サムシング・クール」では済まされない、強烈な存在感があるものになってしまっているように思う。

(本稿は下町音楽夜話261「サムシング・クール(2007.06.23.)」に加筆修正したものです)


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