入間人間「佐伯沙弥香について」リリカルなレズビアンアイデンティティ形成

「佐伯沙弥香について」

ある少女が自分は「女の子に恋することしか出来ない」ということを、理解し納得するまでの物語を追った小説。小中高と展開される断念的な3つのスケッチによって、その納得への道筋が語られる。

特徴的なのはアイデンティティやセクシャリティをめぐる現代的な用語をただの一つも使わずに、ただひたすらにリリカルな言葉によってのみ同性愛者としてのアイデンティティを形成する物語であること。

そして物語の基調にあるのは、自身のセクシャリティと向き合うことへの微かなそれと気づかない恐れ。物語を通して、それを前向きに受け入れていく過程が描かれる。

自身さえ気づいていない欲望を同性から向けられ、その欲望の正体に気づき同時にその欲望が自身のうちにもあることを疑い恐れた小学生の時のエピソード。その予感を示すもの。息のできない水中のプール。

本編の過半を占める中学生時代のエピソードはより核心に迫っていく。

同性愛が自身のアイデンティティの核にあると薄々勘づいているからこそ女の子同士に一瞬躊躇する主人公と、恋に恋する異性愛者だからこそそれを気にしないその恋人。だからこそ組み合わさった歯車は、けれど、恋への目覚めの道筋の違いによって絶望的で不安な差異を顕にしていく。その対比が絶望敵であるからこそ、自身のアイデンティティのありようは明白になっていく。

小説では一貫して、アイデンティティの問いかけは明示的には示されない。それはエピソードとして、あるいはリリカルな感覚としてのみ示される。けれど、その中には明白な社会関係があり、そこにはある種のアイデンティティの考察が含まれる。

主人公はお嬢様として描かれ、家族二世帯で暮らしている。主人公は習い事を多くこなし勉学に励み、親の期待と自身の期待に応え続けるけど、同性との触れ合いによって恋によってそうした自分を次第に喪っていく。小学生の時には、スイミングスクールを辞め、中学生の時には恋によって自己の統制を失っていく。そしてそれは、旧主的な家族制度から次第に主人公が抜けてしまっていく事の現れとも読める。親の期待から導き出される、こうあらねばならないという自己と親=社会の意識と規範。それは、恋という力の前に脆く崩れ去ってしまう。

それはまさに社会との拮抗の中でアイデンティティが形成されていく過程。そして制異性愛的な権力に対して、自己が自己になり恋によって私が君になることによって生まれる、個人的な抵抗の帰結でもある。

ジェンダーであるとかセクシャリティであるとか言った現代的な言葉は一切出ず、ただひたすらリリカルに同性愛者(という言葉さえ出てこないけど)としてのアイデンティティ(という言葉ももちろん出て来ない)を確立する物語だけど、そこには確実にアイデンティティを巡るポリティクスの一端が描かれている。それらをひたすらリリカルに描いたアクロバティック差こそ、この作品のも白さだと、私は思った。

ただそれは同時にフォビアにもつながる。なぜ佐伯先輩はレズビアンという言葉を調べたりしないのだろう?佐伯先輩はそういう風になるのでは?とも思う。


(やがて君になるファンとしては、佐伯先輩がたとえそれが失敗に終わっても、それでもその事を前向きに受け取って繋いでいける人間として描かれたことで、今の恋が実らないことが明らかな佐伯先輩が救われたよね……って感じだけど、悪い人に騙されがちでは??ってなる……)

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