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赤毛のアンとタランティーノ。

アニメ赤毛のアンを見ていたら、大袈裟な言葉で延々としゃべり続けるアン・シャーリーがタランティーノ映画の登場人物に見えてきて可笑しかった。サミュエル・L・ジャクソンと問答していても違和感がない。 原作小説にも少し目を通したが、それにしてもアン・シャーリーという少女は喋りまくる。見開き頁を埋め尽くさんがごときマシンガントークに私はどこか既視感を覚え、はて、と思い返してみると、この感じは川上未映子の『わたくし率イン歯ー、または世界』に似ている。 わたしは脳ではなくて、奥歯でもの

    • 夏の暑さに頭をやられて、この世のすべてが憎い?

      最近の私というのは、夏の暑さに頭をやられ、それはもうかなり深刻で、この世のすべてが憎いほどである。 仮になにがしかの分野で決定的な成功をおさめ、もうこの上ないであろう幸福を全身に浴びたとして、それでもこの憎しみは消えぬだろう、というくらい憎い。すべてが憎い。 いいやお前は十分恵まれている、だのに、往年の少年漫画の、それもかなり紋切型の敵ボスキャラクターの様な愚痴を言って、それは所詮ペシミスティックなセンズリじゃあねえか、などと文句をつけてくる輩もいるかもしれないが、そんな

      • おやすみプンプンとDos Monosと小津安二郎。

        おやすみプンプンを読んだ。 忘れた頃甦る衝動は性と暴力の形をとる、ような青春漫画で、私のような人間には縁遠い世界観であった。蛮習、晩春の原節子。 と、いうのも、 かの漫画本を読んでいる最中、Dos Monos「medieval」の脳内再生が止まらず(原節子云々はこの曲から)、つまりこの破壊的な脳内劇伴のおかげで作中の彼、彼女らがおっぱじめる度、私はシュールなギャグを眺める気分になっていた。 主人公、プンプンのなにやら哲学めいたリビドーが行き場を失い、ならば何か生産的なこ

        • ピンク色のタンクトップから片方の乳房を放り投げる人。

          春は曙、変質者らが行動開始。しかし、それは真夏も同じこと。 ピンク色のタンクトップから片方の乳房を放り投げ、奇妙なフォームでウォーキングする小麦色、そして妙齢の男性。とすれ違う。 所詮、私は俗物であるからまずこれに面食らったけれど、咄嗟に思い直し、いいぞもっとやれ全てを破壊しろ!と、内心よりエールを送る。 という夢をみた。たしかにピンクな夢、だけれど。

        赤毛のアンとタランティーノ。

          枝豆が、憎い。

          つるりとした光沢。 枝豆をつまみ上げ、これのよさが分からん、と私は思う。酒のつまみはもっと、塩っ辛い方がいいに決まってるだろう、とも。あるいは私の味覚が未熟なのか、いいや俺の舌は成熟している、等と自己肯定、自己否定を行ったり来たりする。 しかしそのかたわら、不味い不味いと繰り返すたびにかえって枝豆の虚像は鮮明になり、なにやら憎い憎い、と繰り返すうちに恋に落ちる往年のツンデレアニメヒロインのように(ところで私は、一度憎いと決めた相手には一生態度を変えまい、と誓っている)、枝

          枝豆が、憎い。

          フン詰まりをおこしたフンコロガシの諸行無常。

          フン詰まりをおこしたフンコロガシの諸行無常。 世間には愉快/不愉快なことがあって、しかし割合は均等ではなく、楽観的に皮算用しても、不愉快の方が明らかに大きい。 私の場合はだいたい、音楽を聴くうちに頭が馬鹿になってしまって、愉快も不愉快も有耶無耶にするのがルーチンなのだけれど、形而下的にはなんにも好転していないから、これはこれで考えものである。 そうしていると時たま、有耶無耶にしきれず、なにか糞詰まりをおこした糞コロガシ、みたいな救いようのない気持になることもあり、そんな

          フン詰まりをおこしたフンコロガシの諸行無常。