情報化社会が教えてくれた「ドラマ」の定義
インターネットが生活にとけこんできて、視聴覚メディアというのは、僕らは受動的にうけとるものから能動的にさがしたり、参加するものへと発展した。
最新の情報はいつでもググることができ、ニコ動ではコメントでメディアに参加ができ、キュレーションメディアは自分に最適な情報を知らせてくれる。
商業的に加工された情報じゃなくて「ソース」に個人が直接アクセスできたり、個人が発信者となって情報を開示したりむしろ、個人が情報を操作することもできるようになった。
個人が個人のメディアにアクセスできるからといって、その信憑性が高いというわけではないけれども、個人がメリットもないのにわざわざ情報を操作するということは、全体数としてはすくないはずだ。
その代わり、自分の主張やイデオロギーを広めたり啓発するために、情報を操作して周りを巻き込んでいくということがあるだろう。
そういうものを差し引いても、物事を冷静にみるちからは養われているはずだし、メディアには真実も嘘もあるという視点と、それを自分で判断しなければならない、という考え方がこれまでになかった、新しい視点なんだ。
今まで受動的に流し込まれてきた情報は、商業主義のために操作されたものが多かったと。そう気づける認識も新しい視点だ。
そのうえで、例えば「やらせ」のようなものも、「やらせ」とわかったうえで楽しむという視点もある。それはショーのような視点だ。なにごとも楽しめば、楽しい。それで良いと思う。
個人のメディアといえば、ネット上でみかける動画なんかには、淡々とペットの成長やこどもの成長を綴ったものがある。それが話題をよび、感動をよぶことがある。
これって「ドラマ」の本質じゃないだろうか、と思う。
日常以上でも以下でもない。ただ、その人の、その家族の日常。それが、なぜだか涙がでてしまったり。こころがあったかくなったり、せつなくなったり、情動をうごかされる。
SNSで拡散されていく写真や動画にもこういったものがたくさんある。人の何気無い日常が、人の心を打ち、世界中tにひろまっていくんだ。個人の日常が、ドラマで、そこに笑顔や感動がある。
それが実は「本当のドラマ」
「本当のドラマ」を「ドラマ化」したものを、僕たちはテレビでみながらドラマとよんでいた。それはそれで創作物としていいものだと思う。でも、それは商材としてのドラマなんだ。
母の手料理に感動するんじゃなくて、母の手料理を再現したお惣菜に、長らく感動していたんだと思う。
本当のドラマは、日常の中にもともとあったんだよ、と。
情報化社会が教えてくれた。
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