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「批判」と「皮肉」について。巡り合わせを変えてしまう言葉遣い。

何事にも口うるさく批判的な人が、みんなから好かれるとは考えにくい。

それを補って余りある魅力があるか、または、その批判の内容を本人自身がすべて実践できているとしたら、周りはぐうの音もでないだろうから、それは信頼のおける批判だろう。

この「批判」は誰でもすることがあるし、何かを批判したからといってそれが悪いことというわけではないだろう。ただし、言葉がすぎるとそれが悪口になる時がある。批判と悪口を分けるものはなんだろう。そこに「皮肉」ということばがある。

「批判」は相手の主張に対して自分の主張をすることであり、比較することでもある。自分の主張をベースにして納得できない部分について意見することである。もちろん、批判する中には論理だけでなく感情で好き嫌いが入ることもあるだろう。

社会と比較したり、道徳と比較したり、自分の哲学や信念と比較して、なにが、どのように、いけないと感じるかを、相手や第三者が理解できるように、わかるように伝えることが「批判」ではないだろうか。

それは、自分の主張に同意を求めたいし、程度はあるにしろ、相手の主張を変えれるのなら変えたい、気付かせたいという意思があるから、その手段として「批判」を行うのである。

この「批判」を言っているつもりで「皮肉」が口から出ている人がいる。「皮肉」も、その根源は、相手の主張に対して自分の主張をすることだろう。しかし「皮肉」の場合は、自分が感じた「気に入らないという気持ち」を発散させるために、相手にダメージを与えるようなことばにすることである。

これは、相手を説き伏せたり、意見を主張しあうことが目的ではない。自分の抱いた違和感や嫌悪感によって感じたことを「損失」と捉えていて、相手を攻撃することで同じ損失を与え、すっきりしたい。相手に同じような嫌な気持ちを味わわせてやり返したいという気持ちで言葉を発するのが「皮肉」だ。

つまり、目的は相手を攻撃すること。「嫌味をいうこと」も同じ原理だ。

「批判」というのは、議論を積み重ねるためにある。お互いの表現をするためにある。言葉は表現のために使われる。しかし「皮肉」では、相手を「傷つける」という意図がある。そのため言葉は武器として使われる。

ことばは、その意図によって意味をもつ。

「皮肉」を使うひとは、誰かの主張にたいして、自分が勝手に攻撃された被害者だと思い込んでいる。皮肉や嫌味をつかってしまったらそれは、自分が加害者なのだ。なぜなら皮肉や嫌味には「相手を傷つけよう」という意識がなければ出てこない言葉だから。

批判も多すぎてはうんざりするけれど、自分の意見をいう事と、相手を傷つけようとしている事とでは、それが周囲にどのように写るかは明確にわかれます。自分の主張をするための「批判」と、相手を傷つけるための「皮肉」。

いい巡りのために、「皮肉」をつかうことは避けませんか。

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