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感性とイメージ。世界のはなし。

ひとは、小説を見て泣くことができる。紙に書かれた言葉から自分が主人公と一体になったような臨場感を感じ、涙をながすことができる。

ひとは、漫画をみて夢を叶えることができる。「キャラクター」を信じて、それを師のように追いかけ続けて、いつのまにか、そのものになることができる。

これが感性とイメージのちからなんだ。イメージすることで、他の誰かになって泣けるし、実在にしない人物にでも、なりたくて努力した結果なることもできる。そしてそれを素直に体現し体感できるのは感性が高いからなんだ。

感性の高さとイメージのちからの強さは、「信じるちから」が強いこととおなじ。それは実は、スピリチュアルや信仰のちからとおなじ。それを「信じた」人には感じられる物事があり、うけいれることができる人にだけ、その感覚がひろがっている。これは信仰等の有用性の話ではなく、自分のもっている「イメージ」するちからによって人生が、まさに左右されているということなんだ。

例えば、テロ行為などの「恐怖」の本当の怖さは、そのイメージによって景気が低迷したり経済が低迷すること。みんなのやるきがなくなってしまうこと。世界中の人々の希望が消え、労働意欲が消え、周りのひとを信頼する気持ちが消えたら。それが世界を変えてしまうことが、本当のテロの怖さだ。

僕たち人間は、噂話がすきだ。人の不幸話が好きだ。だから、みんなが好きだから、テレビでは不幸話が増えて行く。なぜ、テレビでは不安なニュースばかり流すの?なぜドラマでは主人公が不幸な経験をするの?「みんながそれをのぞんでいるから」なんだ。

でも、ぼくたちは、本当にもとからそんなことが好きだったかな。

ぼくたちにとって、もっともっと根本的には「良いイメージ」というものがあったんじゃないかなと思う。そしてもっと、もっと純粋に目に見えないことを信じていたころがあったのではないかと思う。

それが、こどのものこころ。夕日や、花や木や、太陽や月、そういったものに、感動していて、胸を馳せるという感覚が誰しもにあったはずだし、大人になってもあるはずだ。

僕にはそれが、物事をポジティブな方向に「信じる」ということにつながっているように感じる。ただそこにあるものに、感動する。感動したことに、感謝する。

それが、感性であり、感受性なんだろう。

おとなになっても、もっているし、まだ伸ばすことができる。たいして難しくない。おもいだして、みとめたらいい。こどものころの自分を感覚をみとめないから、いま目の前の物事に感動できない。「どうせ」「べつに」「だって」と言っていれば、どんどん感性は失われて行く。現状の出来事をうけいれないことは感動することを拒絶しているから。

みとめれは、うけいれたら、こどもの感性にもどれる。だってこどもは全部うけいれる。うけいれてから、表現する。それが感性であり、楽しいことも嫌なこともすべて感動の内側にある。そうして蓄積した体験をもとにイメージするから、感動の形が実現していくんだ。

情報量の小さなインプットからは、小さなイメージしか生まれない。

情報量の大きなインプットが、自分を変えるぐらいのイメージになる。

そうして、日々信じて生きることが、世界を変える、巡り合わせを変える。

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