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なぜ僕たちは、過去を変えられないのか。

僕たちは、「過去」というものが、いまも存在しているかのように思い違えている。

「過去」は、「ある」んじゃなくて、「あった」物事を指している。この世界で「ある」のは現在だけなんだ。

現在というのは、「いま」ということばをつかって、人それぞれが、なんとなく決めている連続した時間のはばのこと。

僕たちは進み続け、更新され続ける時間の幅を今と呼んでいて、その枠から過ぎていったものを過去とよんでいる。

その過去という言葉は矛盾をもってる。いまここにはすでに存在しないものに過去というラベルをつけて認識するため、僕たちは、それがいまここにあるように錯覚してしまう。

だから、過去は変えることができるのではないかという幻想をいだいてしまう。しかし過去は、いま触れることも見ることもできない。すでに5感で知覚できない存在だから、当然変えることはできないんだ。

そしてもうひとつ、僕たちはふたつの過去というものを、混同している。

ひとつは事実としての過去。実際に「あったこと」のこと。もうひとつは、僕たちの記憶としての過去。「覚えていること」。この別々の2つを同じように扱っている。

例えば、史実というのは、研究が進むと、本当はこうだったということがわかったりする。教科書などで教えられた歴史でもあっさりと塗り変わるほど、事実は違うことがある。

科学技術などによって判明した「事実としての過去」と、語り継がれてきた「記憶としての過去」がいかにあいまいな状態でひとつの「過去」として扱われているかがよくわかる。

私たちが知っている「過去」というのは記憶に頼ったあいまいな情報で、本当にそのときあったり、起きたりしていたこととはズレていたり、自分に都合よくおきかわっていたりもする。

ひとは、自分の感性や感情を通さずに物事を知覚することはできないから、 いくら、事実としての過去を精細に調べても、知らず知らずのうちに、都合のいい物だけを集めているかも知れないし、そもそも、必要ないと思ったものを排除しているかもしれない。

そうすると、すべての過去は記憶であると言えなくもない。記憶としての過去が大部分を占めているから、僕たちは既に過ぎ去って変えられない過去を、今ここにあるように実感する。僕たちの頭の中に「いま」過去が存在しているから、きっと、一緒にいるように考える。

それなら、本当は、過去は変えられるんじゃないだろうか。

史実や事実と異なるような、記憶としての「過去」は、作り出されたもの。その記憶は、人の感性や都合によって多少なりとも脚色されたり、誇張されている過去。

そもそも自分で創りだしたものならば、つくりなおせばいい。

そのときの捉え方を、違った捉え方で上書きしてしまえばいいんだ。

いまの自分にとって都合よく解釈してしまえば、過去は変えることができるんだ。

あのときは、あれでよかった、と。

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