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プロとアマの区別を通じて、人生はお金ではないことに気づく

~はじめに~

この文章は、自身のアマチュア性をどう肯定できるかということをテーマに展開されます。

普通アマチュアとは、プロフェッショナルという言葉と対になっており、プロフェッショナルが素晴らしいもの、アマチュアは劣るものとして対比されます。

始めは、プロフェッショナルの何が素晴らしいのか、から考えてみようと思います。裏側から覗いてみるわけです。

そうしたら、アマチュアはやはり、「プロフェッショナルに比べて劣っていて、存在の価値が低い物、優先されないもの、推奨されないもの」、なのかどうかがわかってくると思います。

予想を先取りしておくと、プロフェッショナルとアマチュアは互いに支え合うことによって二つの概念が成立しているため、アマチュアも大切だ、というひとつの答えが透けて見えます。
しかしこの文章では、その着地点を通過して、さらに別の答えを探していきたいと思います。

なぜなら、アマチュアの大切さを知っていたとしても、やはり自分がアマチュアであることの無念さが減るわけではなく、飛べない鳥のように空を眺めている気分になるからです。


①プロフェッショナルとはなにか

プロフェッショナルであることとは、どんな状態を指すのでしょうか。
プロフェッショナルとは、職業と結びついた概念になっています。

特定の物事を生計の手段としているかどうか、がプロであるかどうかの分水嶺というわけです。
職業にするためには、専門的な知識が必要(だと思われているもの)で、専門的な知識は、一朝一夕では身につかない(と思われている)からです。

他にも、プロフェッショナルは、スポーツの世界でもよく使われる言葉です。

スポーツにおけるプロフェッショナルとアマチュアの対比は、今回の議題の中心になるかもしれない。そんな予感を感じます。

冒頭の繰り返しですが、僕はプロフェッショナルという言葉に対して、アマチュアという言葉の価値を高めたい、と考えています。

なぜならそれはそのまま、今の自分を肯定することに繋がるからです。

「なんだ、結局自分を肯定したいがために語るのか」と思われるかもしれませんが、アマチュアや、ワナビーといって揶揄されるような存在の価値を、改めて考えてみる機会だと思って、みなさんもにもお付き合いいただきたいのです。

議題になるようなことがいくつかでてきたので、整理しておきます。
・まずは、職業におけるプロとアマの違い。
・次は、スポーツにおけるプロとアマの違い。
・最後は、いかにしてアマチュアやワナビーであることを肯定するか、です。

これらを検討し、アマチュア、あるいはワナビーと呼ばれる、価値の低いものとして扱われている存在に対して、今ある場所とは別の居場所を見つけてあげたいという目論みです。

②仕事におけるプロフェッショナル

冒頭にもさっと見てみたことですが、職業における領域の、プロとアマの違いをもう少し掘り下げてみましょう。

職業におけるプロとアマの違いは、その専門性によってお金を稼いでいるかどうか、がメインで問われます。

職業における領域では、プロ/アマの対比の周りに「お金(稼いでいるかどうか)」という価値観があり、お金の隣には「責任」があって……という風に、概念の連なりを想像することができます。

つまり、専門家はその専門性によってお客からお金をもらい、お金をもらうということはそれだけの責任をもって、自分の技術を行使しなければならない。というような考えです。

ここでは、プロはお金をもらえて、その責任も自分でとれるのだから偉い、という力関係が見られます。

その力関係は、社会の中ではお金を持っている人が偉い、という考え方に紐づいています。

そこから、裕福/貧乏の対比が導かれ、プロは専門家で裕福で偉い。アマは素人で貧乏で凡庸である、というイメージが構成されます。

職業の領域は、社会を形成する一つのパーツであり、そこではプロフェッショナルの立場が強く、アマチュアの立場は弱いものであることがわかります。

③スポーツにおけるプロフェッショナル

では、スポーツの世界ではどうでしょうか。

スポーツ界隈においてアマチュアという言葉が使われ始めたのは、18世紀のイギリスだそうです。ブリタニカ国政大百科事典のアマチュアの解説に、

「1839年に始まったボートレース,ヘンリーレガッタの参加規程に用いられたのが最初である。」という記載があります。

ここから、スポーツの世界では、プロとアマの区別に変遷があるようです。ブリタニカ国際大百科事典の内容にそって、ざっくり見てみましょう。

この言葉がスポーツの界隈で使われるようになった頃、アマチュアとは肯定的な意味で用いられていたようです。

アマチュアは、純粋にスポーツを愛好する人であり、その精神は、スポーツをすることによって、金銭の授受が行われたり、賞金を得たり、生計を営んだりなど、経済的な利益を追求するのはしない者である。という意味合いが含まれています。

近代オリンピックが創始される際も、アマチュアリズムが、その信条として掲げられたようです。

しかし今では、スポーツ選手は、他の職業に付かずスポーツ自体に専念している存在=フルタイム・アスリートであることが殆どで、そのような在り方こそ推奨されているように見受けられます。

この変化のポイントは、1968年テニスのウィンブルドン大会の動きにあるようです。

1968年テニスのウィンブルドン大会の規定に、アマとプロの区別なしに参加できるオープン制および賞金制が採用され、その流れで1974年オリンピックの参加資格規定が改定、ついにはオリンピック憲章からアマチュアの定義が削除されました。

これによって、スポーツ選手が個別にスポンサーと契約したり、該当団体から必要経費や広告出演料を受け取ることが可能になりました。

このような流れを経て、毎日練習、ないしは試合に出場し、他の職業にはつかない「フルタイム・アスリート」たちが、どの競技でもトップレベル層を構成するようになり、アマチュアという言葉は、殆ど死語になりました。

以上のように、スポーツの世界には、プロとアマの区別に変遷があり、高い地位にあったアマチュアという言葉は、殆ど死語になるまでその地位が下げられ、現在はプロフェッショナルであることの地位が高くなっています。

④プロフェッショナルについてまとめ

ここまで見てきた限りでは、アマチュアを肯定できる要素は、今や殆どないような気分になってきます。
これには社会状況の変化が影響しているように見受けられますが、社会学、経済学、資本論、そういった込み入った話にはここでは立ち入らず、アマチュアという概念のみを検討することにとどめます。
これについては、専門の領域の方々により子細な検討をしていただきたいと思っています。

先ほど見たように、スポーツの世界では最初、アマチュアという言葉は高い地位にありました。

それは、下記のような意味においてでした

「スポーツなどを、営利を目的とせず、趣味として純粋に愛好しようとする考え方」です。

ここは、営利という言葉がマイナスのイメージとして使われています。

営利をマイナスなイメージとして捉えている背景には、イギリスの階級制度が関係しているようです。

ここには、裕福な上流階級と、貧しい労働者階級の対比があります。

お金を持っているひとは、その専門性において、営利を目的とする必要はなく、純粋にその対象について情熱を費やせる、というイメージです。

こういったイメージは、今では通用しないかもしれませんね。それは、社会を構成する構成員の力関係が変わってしまったことが原因かもしれません。

裕福な人が趣味でゴルフを嗜むような姿に、なんとなく敬遠されがちな雰囲気を感じるのは、筆者が貧しい階級で生きているからかもしれませんが。

現代の日本で生きている市民としての僕のイメージとしては、「営利を目的とせず、ただその物事を愛好している姿」というのは、バラエティー番組に登場する面白いおじさん、とか、そういう雰囲気が想起されます。

その雰囲気も、そういった存在を面白がる、面白がるというのは、ちょっと自分より下の存在として見下すような態度があって、面白がっている感じです。

⑤プロフェッショナルという概念をささえているのはお金?

ここまで、プロとアマの区別を見てきたことによって、その区別の背景には、現代では、お金という存在が大きな力を持っていることがわかってきます。

お金がある=余裕がある=なんでも自分の思い通りにできる。そういう思想が当たり前になっているのです。

僕はこれに反対してみたいと思います。

このような流れに反対することで、アマチュアであること、あるいはワナビーであることを肯定してみるという試みです。

職業においても、スポーツにおいても、お金という概念の周縁を回るような感じで、プロとアマの区別がなされていました。

たしかにお金があれば、将来に不安を抱く必要もないかもしれないし、好きなときに好きなものが食べれるし、不自由しなくて済むし、プラスの面しかないように感じます。

が、実際はどうなんでしょうか。
自分の人生をお金に乗っ取られてしまっている人も多いのではないでしょうか。
人生の主体はあくまで自分です。お金ではありません。
自分が主体であること、これはどういうことでしょうか。

逆から考えます。お金に乗っ取られた人生とは、お金がないと不安な人生です。
お金こそが、自分の人生を図る物差しになり、お金があれば幸せ、お金がなければ不幸、となります。
他方、自分が主体である人生は、お金があるかどうかは、関係ありません。
自分が幸福に感じることが、お金と結びついていない、といいましょうか。
さらにいうと、自分が不幸になることもお金と結びつかない人生です。
貧乏でも不幸ではない、そういう人生です。

では、そういう人生にとって、何が幸せなのでしょうか。
それは、「楽しいという感情」です。
楽しいという感情を、過ごす時間の中でどれくらい多く摂取できるか。
そう考えてみてください。

今日一日、何回くらい楽しいと感じましたか?その楽しいことに対してどのくらい深い喜びを感じましたか?
こうやって問うことによって、お金とは別の次元が見えてきます。

たとえお金を持っていても、それで高級レストランにいったり、欲しい物を好きなだけかったりしても、虚しいと感じている人はいるわけです。想像してみたら当たり前のことですよね。

でも自分はそれができないから、羨ましい、そういう妬みような感情がそこにあることに気づくことが大切です。
プロとアマの力関係を揺るがすポイントがここにあります。

自分がたとえアマチュアだとしても、それを純粋に楽しむこと、楽しみ続けることこそが、本来一番大事なところなのではないでしょうか。
そしてそれは、プロでもアマでも可能なことです。

お金がない⇒生活に不自由が生じる⇒だから楽しみたいことが楽しめない。
そいういう声も聞こえてきそうですね。
確かに、お金がないことによって、やりたいことがやりたいようにできないかもしれません。
スポーツに打ち込みたいのに、仕事をしないといけない。
フルタイム・アスリートのように練習できないから、トップの環境についていくことができない。
そういうもどかしい思いをしているひとも沢山いると思います。

そういうときはどうしたらいいのでしょうか。

⑥お金から人生を取り戻す

自分の希望との「関係調整」が必要になります。
「関係調整」というのは、ここででてきた新しい概念です。
その内容は、自分自身がその人らしい生き方を送るため、各自で自身の欲望と向き合い、自身のおかれた生活環境や社会環境を俯瞰しながら、調整を図り、自身と自身の欲望と自身の生活環境の三つを調整することです。
そこには現実の厳しさがあります。
たとえば、プロのアスリートになろうとします。
しかし、そこには自身が生まれ持った身体がどのような構造をしていうか、という問題があります。
身長の高低、骨格、筋肉の質、そいういった様々な要素によって人体が構成されており、その一つ一つを自分の思い通りにセットすることは不可能です。
突き詰めれば、いくらお金をもっていたとしても、そいういう裕福な家庭に生まれたとしても、自分の身長の高さを自分で決めることはできないわけです。

そこには端的な現実の偶然性があります。
その「端的な現実の偶然性」を受け止め、自分の欲望の関係を調整する必要があります。

自分の欲望もまた、自分の過ごしてきた時間の中で自然と形成された存在です。もとから何らかの自分の性質があり、そこにインプットされた様々な出来事をとおして、欲望が形成されるとします。
そしていつのまにか形成されていた欲望は、いずれ自分を振り回すような存在にまで成長しています。
もはや、形成されてしまった欲望は、自分が意図するか否かにかかわらず、自分のことを突き動かしてしまいます。
そういった、自分のコントロールの外にあるものに対して、どのようにして良好な関係を築けるか、それが関係調整の要点になります。

⑦アマチュアであることを肯定する

話がうねうねと曲道を進み、当初話していた、プロとアマの区別、アマチュアという言葉がおかれている場所からだいぶ離れてしまいました。

ここまできて、アマチュアという言葉の新しい置き場所が見えていました。

それは、環境調整の結果、人生を楽しむことに成功した人たちがいる場所です。プロとは、今やお金に支配された概念になってしまいました。
アマチュアという概念は、そこから離れ、自分の人生をお金から取り戻し、人生を楽しむ姿勢を手に入れた人たちのいる場所、と定義したいと思います。

その場所にはもう、妬みや恨みはありません。

自分以外の何かにあこがれる必要もなく、ことの本質は自分にあります。
ことの本質が自分にあること、これが人生を主体化することなのかもしれません。
ことの本質がお金になってしまった人たちは、お金に左右される人生を送ることになります。
僕は、そのような人生はあまりよくないのではないかと思いますが、どうでしょうか。

アマチュアであること、ワナビーであること、これらから妬み、恨みを解放し、ほんとうの楽しみを人生において味わうこと、このような姿勢こそ、いまの時代に必要なのだと、僕は考えます。

長くなりましたが、今日の記事は以上です。
ありがとうございました。


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