東大の赤門と事件と死とコロナと輪廻
僕は今日、東大の赤門前を歩いていた。
数日前に、17歳の少年が、受験生を刃物で刺した場所。
その近くだった。
街には、特に変わった様子はない。
冬の曇りの午後だった。
僕は歩道を歩いていた。
歩道に人が行きかう。
1分の間に、5、6人とすれ違うくらいの間隔で。
グレーのアスファルトが、まっすぐ伸びている。
右手には、あまり派手ではない商店や、コンビニエンスストアが並んでいた。
左手には、ガードレールが設置されていて、等間隔に銀杏の木が植えられている。その向こうは車道。
僕はケータイショップに向かっている。
10年以上使用した二つ折り携帯と、ついにお別れする時がきた。
数か月後、古い回線は使用不可となり、僕の携帯は目的を失った機械になる。その前に、新しい携帯電話を手に入れなければならなかった。
数日前Twitterで、古本屋の入荷報告のツイートを目にした。
いくつか魅力的な本が画像に映っており、記憶に残っている。
古本屋は、東大の赤門近くにあり、僕の家からも歩いて15分くらいのところにあった。
ケータイショップも、その近くにあることを知って、僕は今日の予定を、何となく頭に思い浮かべていた。
古本屋の場所は、今僕が歩いている歩道の先にあった。
商店の看板に目を配りながら歩く。
僕は、ガラスのショウウィンドウの前で、歩く速度を緩める。
まっすぐ進む足の先に、大人の手のひら2つ分くらいの大きさの「何か」が落ちていた。
視界の端に映った「何か」は、すぐに僕の注意を引いた。
それは、明らかに生き物だった。
なぜ、生き物というだけで、すぐに注意を引くのだろう。
それが動くものであり、予測できない動きをするものであり、もしかしたら危害を加えてくる可能性もあるから、だろうか。
もう少し近づいていくと、その生き物が、鳥、であることがわかった。
深緑色の柔らかな羽が、少し風に揺らされていた。
人が行きかう歩道の上で鳥が横たわっているのはおかしいが、何も外傷はなく、毛並みも艶やかだったので、生きているのか死んでいるのか、一瞬では判断できなかった。
僕はその鳥を避けながら歩き続けており、通り過ぎたあたりのところで、その鳥が死んでいることに気が付いた。
そのまま2、3歩進んで、僕は立ち止まった。
鳥の死体には、僕を引き留める引力があった。
僕は振り返る。
視界には、歩道を歩く人々と、人々の足元に転がる鳥の死体が映った。
足元の死体に気を留める人は、いない様子だった。
僕は歩いてきた道を戻り始める。
アスファルトの上にある死体は、異物のような存在感を放っていた。
それは、生きている僕の時間の目の前に唐突に表れた死の存在だったからか。
周りの人々は、死を見ないようにして通り過ぎていくような気がしたが、それはただ、僕がそのように想像しただけだった。
僕はアスファルトの上に生き物の死体があると、悲しい気持ちになる。
以前目にしたそれは、ネズミの死体だった。
ネズミの死体は、マンションの駐車場に横たわっていた。
僕はその死体に気づいたとき、汚いな、と思った。
そのネズミは、駐車場の脇にある、ゴミ捨て場からやってきたに違いなかった。大きな外傷はないようだが、毒餌でも口にしたのだろうか。
翌日、ネズミの死体は、変わらずそこに落ちていた。少し、腐敗が進んでいるように見えた。
その翌日と翌々日は、雨が降っており、家からでなかった。
あくる日に駐車場の前を通ると、ネズミの死体は、ほとんど皮と骨だけになっていた。
僕はアスファルトにのっぺりと張り付いたネズミの皮と、その上にちょこちょこと散らばる白い骨を見た。
アスファルトで舗装された地面は、人工的につくられた環境だった。
そこでは、死体は土に還らない。
肉や内臓は、残さずうじ虫が食べ尽くしたのかもしれないけれど、皮と骨は、取り残されていた。
生き物の一部だったそれらが、濾されて残った滓のように存在していることが、悲しかった。
死んだ体の一部が、どのような過程を経て分解され、形を変えていくのかはわからない。
しかし、アスファルトに張り付いた皮と散らばった骨は、然るべき扱いを受けていないように思えた。
その風景には、生命に対する尊厳が欠けていた。
いま、僕の目の前にある風景にも、生命に対する尊厳が欠けていた。
僕は周りを行きかう人々をうかがって、人気が少なくなったときを見図り、こそこそと鳥の死体に近づいていった。
鳥の死体の前でしゃがみ込む、外傷はまったくない、綺麗な体だった。
そっと川から水を掬うようにして、鳥の死体を両掌の上に乗せた。
両掌にすっぽりとおさまった体は、温かかった。
僕はその温度に小さく驚く。
死んでいるのは、見間違いで、まだ生きているのだろうか。
しかし、鳥の目は見開かれたままで、首はぶらぶらとしていたから、やはり既に死んでいるようだった。
にもかかわらず、温かく、柔らかく、ふさふさした翼を手のひらに乗せていると、いまにも立ち上がり、翼をばたばたはためかせるのではないかという気がして少しびくびくした。
歩道脇に植えられている銀杏の木の根元は、土がむき出しになっている。
僕はそこに、鳥の死体を置くことにした。
木の根によって盛り上がった土の窪みに、鳥の体はすっぽりと収まった。
死体の移動を済ませると、僕はそそくさとその場を離れ、手指を消毒した。
一連のことの間、僕はずっと緊張していた。
なにか、悪いことをしているような気がした。
悪いこと、というのは、社会の営みの中から外れたことをしているような感覚だろうか。
僕は、終始こそこそと動いた。
それは、どんな小さな死でも、それに触れることは、社会の営みの一番端っこに触れることになるからだろうか。
死、という現実的かつ象徴的な出来事は、それに触れた人を感化する。
「穢れ」というのは、つまるところ「恐れ」なのではないかと思う。
死は触れた相手に、自分もまたいつか死ぬことを強く思わせる。
鳥の死因は、恐らくバードストライクだと思う。
そういう事故がたまに起こることを、僕は知っている。
また、僕の身にも事故が起こり得ることを僕は知っている。
それは、悪性腫瘍かもしれないし、交通事故かもしれない。
でも今日は一日、何事もなく過ごし、古本屋で買いたかった本を買い、新しい携帯電話を手に入れることもできた。
最後に文章中に書けなかったことを付け足して終わりとする。
仏教に「輪廻」という概念がある。
「輪廻」は「来世」というという概念と密接に関係している。
が、僕はこの「来世」という概念が、「輪廻」のことをわかりにくくしていると思う。
仏教の用語を、現代の言語感覚で理解していいのか、僕は疑っている。
来世と聞くと、普通、このようなことが頭に浮かぶのではないだろうか。
「死んだあとに、別の人生が始まる」
その別の人生では「今生きている私」と「別の人生を歩む何某か」に繋がりがある。
この一連の文章は、実証できる部分と、実証できない部分にわけられる。
まず、自分の死んだあとに、別の人生が始まるかは、実証できない。
人間にとって死は経験の限界であり、死後は経験することができないから当然だ。
次に実証できる部分。
今生きている自分が死んだあとも、別の人生があることは実証できる。
これは言葉の綾のように聞こえるかもしれないが、どうだろう。
今生きている自分が人類最後の1人だった場合、自分の死後に人間の人生は存在しない。
しかし当然、自分は人類最後の1人ではない。
ということは、自分が死んだあとも、別の人間の人生は存在する。これは明らかだ。
そこで問題は「今生きている私」と、その死後にある「別の人生」に「繋がり」があるかどうか、という部分になる。
ここで「繋がり」をどのように定義するか考えなければならない。
「繋がり」の定義を「縁起」とする。
縁起という新しい単語がでてきたが、これが最後です。
縁起というのは、「因縁によってあらゆる事象が、仮にそのようなものとして生起していること」とします。
かみ砕いて言うと、地球上で起こることは、すごく小さなことでもすべて関係しあっていると捉えることができますよ、ということ。
まぁそれを信じるか信じないかは、自由です。僕は信じます。(関係という言葉をどのように捉えるかが問題になりますが、永遠に遡行しそうなので、ここで終わります。)
つまり、自分の生は因果(とそれによって起こる出来事)の一部として生起しており、また自分の死もその因果(とそれによって起こる出来事)の一部として、地球の中を循環している。
と考えると、輪廻という概念は特別に複雑なことは言っておらず、単純に理解できる事象の説明だと言える。
話が蛇の体のようにうねうねと曲がりくねってしまったが、アスファルトの上で死ぬと、皮とは骨とかが無残に残って、なんか汚らしい感じになって、嫌だよね、そう思いませんか?
死の最後になって、打ち捨てられて、腐って、臭くて汚らしくなって、周りの人から避けられて、って想像しただけでも悲しい。
死という生き物の最後に尊厳を保つことは、本能的に大事だと直感した。
コロナ禍の始め頃、イタリアのアガンベンという哲学者の発言に批判が集中した。
アガンベンは発言の中で、多くの人々が葬儀もなく埋葬されている現状について疑問を提示した。
つまり、死に対して尊厳を払わなくなったら、私たちの社会はどうなるのか?ということだ。
僕は仏教徒とは言えないし、来世とかを信仰しているわけではない。
しかし、死に尊厳を払わなくなった社会は嫌だ。
今日、鳥の死体から目を背けながら歩き去っていった人たちの目には、社会はどのように映るのだろうか。
僕はその景色を想像しながら、この文章を書いていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?