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少し遠くに焦点をあわせてみる

見えているものごとの少し向こう側に焦点を合わせてみよう。わたしはそういうことをしたがる。ほんとうにできているかわからないけれど。そうやって先日、本を眺めていた。

今は「心のない論理」っていうのが、当たり前だと思われてるフシがある。「心がないからこそ正確だ」って思われてね。しかも、「心のない論理」の人にとって、「心のある論理」が分かんないから、そもそもそれを理屈だと思わない。で、単にわけのわからない、うるさいこと言われてると思って、キレるんです。

「心のない論理」って、一見、言葉が理路整然と並んでいて、個人的な欲望とは無縁なように見えるんだけど、実際はその背後に「こうあってほしい」という欲望が最初から隠れていて、その結論に向けた中身のない理屈が組み立ててある。

「心のある論理」は欲望が論理に入り込むことをあまり認めてくれないんですね。「それをやると論理が歪む」って考えるから。
 でも、「心のある論理」っていうのは、論理としてはわかりやすい「心のない論理」よりは、ずっと余分なことが多いから、あんまり人の頭の中には入らないのよ。

橋本治 たとえ世界が終わっても

わたしは、心のない論理とは、表面上は感情を廃し公平に見せかけつつ、自分の都合のみを溶かし込んだ小理屈だと理解した。昔の人はこういうのを「我田引水」といった気がする。自分だけに都合のいい理屈を並べたてるときに、そういう表現を使う気がする。

一方で、
心のある論理とは、自分の都合だけに縛られず一歩引いた視点で物事を構築すること、と仮止めしてある。欲望が入ると論理が歪む、というのは面白い言い方である。

そもそも人という存在は欲望を持っていて、それを論理に入れないようにするためには自制心、あるいは自律心が必要になる。その心をもって「欲望の入らない論理」を構築しようとしても、人が考える限り欲望はどうやったって入り込むのであって、それが「手前勝手な論理」とならないよう常に振り向きつつ、ものごとを進める必要がある。
心のある論理とは、その程度に面倒なものであって、そこにはクリアカットに語れない「曖昧さ」が必ず存在する。物理現象を捉えるのにどうやったって観測者の影響を考慮しなければならないのと同様に、論理立てをするにあたっては必ず人間の本来のさがあるいはごうを考慮に入れる必要がある。人はそこから逃れられない。

そういったことをぼんやり考えているときに、とても興味深い投稿を拝見した。言葉のプロである、遠入のどかさんのものであった。

遠入のどかさんのおっしゃる

曖昧さに耐える力

という言葉に、はっとなった。
これは、のどかさんの投稿の言葉を借りれば

いつの間にか私の勝手な思い込みになっていないだろうかと謙虚に振り返る

ことである。
これは、他人と私との隔たりを認め、尊重することであると理解した。ここで、認める、とはたとえば「Aだと言った」事実をそのまま事実とみることである。そこに勝手な思い込みや決めつけを言葉として足してはいけない。隔たりの程度を自分だけのものさしで見積もって色付けしてはならない。具体的には「Aだと言ったのは、発言者の背景にB(という利害関係や文化的土壌、個人的な都合)があるからだ」といってはいけない。その態度は尊重からは遠いところにあって、こういうことをすると「私とは違って、発言者はしょせんこの程度だ」と相手を見下しているメッセージになり得るし、さらには「私はそういう偏見を持った立場でものを言う」と宣言したことにもなり得る。

謙虚に振り返る、というのは、相手の立場を推し量ること、つまり相手の立場は一義的には決まらないのではないか、と推測し保留することに繋がるように思う。ここにはまず「自分はすべてを理解しているわけではない」という事実の認定(=謙虚さ)がある。

先入観を持たないことで、言葉が発せられた背景を探る必要が出てくる。過去から現在への発言者の履歴であったり、会話の流れであったり、目の前にいる相手の非言語情報であったり、これらの情報を総合して、相手の立場を推し量る。実に面倒な作業である。しかもここまでやったところで可能なのはあくまで「推し量る」ことにとどまる。

これに対し、情報をかいつまんで「決めつける」ことは簡単である。決めつける、とは、自分の理解できる範囲のことを手近な場所から集め、自分の頭で考えることなく判断することである。これによって、人は曖昧さとは違う世界へ出ることが可能になる。これは、曖昧さに耐える力がない、ということでもある。そして、決めつけた瞬間から、人は考えるのをやめてしまう。

考えるのをやめてしまえば、どうなるか。
のどかさんはこう見ておられる。

曖昧さに気付くことなく、絶対の世界に安住することができる。

自分の論理、自分の都合が優先される世界、他の"論理"の介入のあり得ない世界。これは、自分以外の価値観を認めない世界ともいえる。自分のしがみつく論理の外側を認めれば、その世界を理解し直さなければならない。そこには必ず、わからない部分、曖昧な部分が含まれる。

曖昧な部分を残した世界での立ち居振る舞いを、誰も教えてはくれない。


曖昧である、というのは言いかえれば、わからない部分がある、ということである。相手との関係でわからない部分を減らしていく作業が、言葉でのやり取りになる。この作業は言い換えると「いまわたしは、あなたのことがわからないけれども、もっと知りたい」というメッセージでもある。
曖昧さを保留したまま、相手へ「知りたい」と問いを投げかけること。敬意が生まれるとすれば、その一つの源はここではないか、と思う。

「もう、わかったよ」とか「だから、その話はもう聞いたってば」というのは、「私はあなたの言いたいことをたいへんよく理解しました。ピース」というような友好的なメッセージではありません。どちらかというと「わかったから、黙れ」というコミュニケーションの打ち切りを意図する信号ですね。
 私たちが会話においていちばんうれしく感じるのは、「もっと話を聞かせて。あなたのことが知りたいから」という促しです。でも、これって要するに、「あなたが何を言っているのか、まだよくわからない」ということでしょう?

内田樹 先生はえらい

わからない、というのは、理解が曖昧である、ということである。その曖昧さをクリアにしたいから、もっと教えて下さい、と自発的な思いが生じたときに、言葉は相手への敬意の形をとる。

わたしが遠入のどかさんの書かれたものを拝見して思ったのは、そういうことであった。


考えるきっかけをいただきありがとうございました。