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禅とオートバイ修理技術 メモ

読んだ。メモ書き。わたし自身が考えるのを途中でやめてしまったようなところがある。この本の書き手がいう「クオリティ」は本居宣長の「阿波礼」を思い出させるようなところがあり、そこを少し掘り下げると面白かろう、と思いつつ、現実世界のウェブ会議にうつつを抜かし(いや、それはそれで大事です)、しばらく考えないままであった。以下のメモは、この作品を読んだ人には、もしかしたら解る、かもしれない。べつに高尚なことを言っているのではなく、単純に、あらすじもなく、個人の感想をつなげただけのものであるから、わからない可能性のほうが高いな、と思ったのであった。もしかしたら解る、かもしれない。

そして、バイクや車に乗るときは、かもしれない運転を心がけましょう(この文章に限っては、たぶん読み手に理解されると思います)。


*   *   *


この物語は
ずっと続いた長い長い旅に関するものであった。

書き手が自分の頭で考えて自分で推し進めてきた「彼なりの正しさ」は、物語の展開する間ずっと自分が走らないと進まない、オートバイでのツーリングとリンクし続けていた。

目的地はどこなのか物語の中で明かされていなかったのは、バイク乗りの立場からいうと当然のことのように思えた。思考の行く先も、オートバイの行く先も、その時の天候、道路の状態、そして気分によっても変わるからである。

思考を自由に遊ばせる日もあれば、雨のなか淡々と走る日もある。走りたくない日もあるし、走りたくても走れない時もある。そうして実際に地面の上を旅して、自分の中で思考を自由に泳がせて旅をする。それも高速道路ではなくて、脇道を選んで走り続ける。知らない土地で五感を通して様々なことを感じているのだ。

なんと素晴らしいことだろうと思う。

それだけではなくてオートバイに乗って走り続けることで自分の過去を追体験し、当時の自分を一段高い視座から俯瞰することで、より客観的なものの見方を身に付け、そのような自分を、今に至るまでの単純な事実として受け入れようとするプロセスでもある。言い換えれば、自己の回復プロセスである。

そう考えればこそ昔の哲学者が考えたことをこねくり回す記述が、意味のあるものに思えてくるのである。これは、「それこそが絶対的な真理だ」と考えていた過去の自分と、「そういう考え方をしていたのか」と振り返る今の自分との対比である。


この作品はモノローグでありながらモノローグではない。書き手の息子であるクリスに、彼が”パイドロスであった過去”を重ね合せることもできる。


記憶を辿る旅が現在との断絶点に追いついた時に、書き手は彼一人では自己回復の過程を完了できなかったことを知る。

人は一人では生きていけない。

いや、肉体的には一人で生きていくことはできる。けれどもよりよく生きるとはどういうことか。自分が「よりよく生きる」ことができなくなってしまい、精神の奈落へ引きずり込まれてしまう、その重力と自分の無力を感じさせられるときに、それでも自分を必要としてくれる人がいるという事実を知る。



不完全であるから完全を追い求める、という聡明な書き手の偏執的な思考の旅は(自己回復の過程として、自分の納得する道筋をたどるのが必要なこととはいえ)肝心なところを外したまま論理を展開して、結局は哲学の源流にたどり着く。これが自然科学であれば、最新のもののほうが頼りになるだろう。しかし、哲学の世界においては必ずしもそうでは無い。

 アリストテレスに対して正当な接し方をしなかったのは
 (中略)
 先人によって、彼の考えが台無しにされてしまうからであった。
 (ハヤカワ文庫 下巻 277頁)


このような考えが腑に落ちたのなら、アリストテレスの名前が誰と入れ替わろうが本当の理解への道筋は開けたも同じなのだ。すなわち「自分の存在をつまらない我執から開放する」ことである。岡潔がいうところの「小我」に通ずるものである。
先人によって彼の考えが台無しにされる、ということは、彼の考えがその程度のものだ、ということを知らしめることでもあり、自らの築き上げてきたものがいかに脆かったのか、を実感させるものであった。
ここに気づけば、自分が新たな秩序を組み立ててやろう、という企みから、自分の外側のものに教えを乞う、という視点の転換が起きるように思う。


バチカンにあるラファエロの描いた「アテネの学堂」において、プラトンは天を指し、アリストテレスは地を指している。


書き手はこの二人がソクラテスの思想を分断してしまった、と思い込み、それに対して「明らかな反感を抱いている」ようにみえる。わざわざ後世の人々が惑うような線の引き方をするなど言語道断だと思ったに違いない。

アレテーを、イデアの世界と、実践科学の世界に分断してしまったギリシャ哲学には用が無いと見限ったのではないかと思われてくる。だから時代を下ったところの哲学者の名前を挙げて、彼らの著書の範疇で理解をこねくり回していたのであった。
しかし、それではいけないと気づいて書き手は哲学史の源流へ遡っていく。

それは、最短距離で目的地へたどり着く道のりではなく、地面を感じながら様々な景色を眺めて進んでいくオートバイの道のりに重なる。

目的地は、どこだ。




息子のクリスとは和解したわけではない。
クリスの助けを借りてはじめて、書き手は自己の肯定へ進んでいけたのである。

このプロセスを経てはじめて息子へ信頼に足る言葉を発することができたのである。自らの過去を受け入れていなかったのは他ならぬ自分だった、と思い至った時に、過去と現在との断絶が消えて パイドロス=書き手 の肉声がクリスに届くのであった。

言葉だけに止まらないこの会話は「クオリティ」にふたりが触れたという解釈をしてもよいと思う。

過去の自分と現在の自分との断絶、息子のクリスとの溝、アレテーを形而上と形而下に引き裂いたプラトンとアリストテレス

物語としてはこれらのものがひとつになる、という終わり方であって、それぞれの人がそれぞれの切り口で読み進めていけるという点で、名著だと言える。



新田次郎は
「なぜ山に登るのか」を文章に溶かしこみ
いくつもの作品を生み出した。

なぜオートバイに乗るのか。
私にとって
その全てが書かれているように思う。



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