アメリカの民主主義
どうも、犬井です。
今回紹介する本は、アレクシ・ド・トクヴィル(=仏、1805~1859)の「アメリカの民主々義」(1957)です。この本は1835-40年に出版された「De la démocratie en Amérique」を翻訳した書です。約200年前に書かれた本であるにも関わらず、その後の未来を記述しているかのようなトクヴィルの先見性には、今なお読まれ続ける理由が宿されているように思われます。そうした古典書の中から、特に興味深い箇所を抜粋しつつ書き綴っていきたいと思います。
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アメリカの民主主義
アメリカの社会状態は、著しく民主主義的である。これは、植民地創設の当初から、アメリカの特質であり、現在においては、この傾向はますます著しい。
もともと、ハドソン川から東にかけて定住した移民たちの間には、貴族制度の萌芽すら持ち込まれることがなく、偉大な平等がそこには存在した。
また、ハドソン川から西南においては、貴族主義・イギリス式財産相続制度が持ち込まれはしたが、所有農地の耕作は奴隷によってなされたため、貴族たちは借地農民を持たず、ヨーロッパ貴族のような特権はなにも持ってはいなかった。
そうしたアメリカ社会の平等を完成に向かわせたのは、財産の分割相続の法律であった。その法のもとでは、地主の死とともに、所有地は小さくいくつかの持分に分割された。財産が自由に流動することは、家が父祖伝来の所有地をそっくり持ち続けることを困難にさせる。その結果、地位・身分・名声は世代を経るごとにますます平等なものになっていった。
多数者の専制
平等を至高とするアメリカは、本当の意味における思想、言論の自由が、世界中で最も欠乏している。
というのは、平等を理念とするアメリカでは、一個人より多数者の集まりの方により多くの知性と知恵が存在するとして、人間の知性までも平等に捉えるからである。多数者の力を絶対的とする民主政治では、少数者の意見は踏みにじまれるのだ。
それを踏まえると、独裁政治と民主政治には似ている点がある。独裁政治のもとでは、君主以外の人民は平等であり、民主政治のもとでは全ての人民が平等な点である。独裁政治では少数者を暴力で押さえつけ、民主政治のもとでは少数者を無視する。こう考えると、独裁政治の専制と多数者の専制に陥った民主政治は大差がないのである。
以上のように大多数の専制的な力が、個人の考えを抑制しているとしたら、独裁政治と民主政治は決して対のものではなく、一つの悪が他の悪と入れ替わっただけである。
民主主義は平和望み、戦争を欲する
民主主義国家においては、戦争が起こると忽ち無くなってしまうであろう、個人的な資産の発生、温和な風習、優しい心、条件の平等化から醸し出させる同情的な傾向、軍隊の激烈な私的な興奮を比較的感じさせなくなる冷静な理性などが、軍隊的精神を鎮めるのに役立っている。そのため、文明国家間においては、社会条件の平等化が進められるにつれて、戦争への情熱が稀に、次第に弱まるであろう。
それにも関わらず、戦争は民主主義国家においてもふりかかる事件である。その原因の一つは、軍人の昇進欲である。
民主国家の軍隊では、どの兵卒も皆将校になれるであろう。しかし、この事実が、昇進欲を一般化し、軍人の欲望の範囲を、計り知れぬほどに拡張する。ポストの数は有限であるにも関わらず、平和な時は上が詰まって昇進ができない。しかし、戦争は上に空席を作り、確実に先任順の法則が破られる。従って、民主主義国の軍隊の野心家たちが戦争を望むことに繋がる。
こうして、民主主義の軍隊が最も戦争を好み、平和を好むという奇妙な結果に立ち至る。
民主主義が機能するために
民主主義が多数者の専制に陥ることなく、幾分かマシに機能するためには、政府と人民との間に中間団体が存在することが必要である。中間団体は、政府の権力の圧力を分割するとともに、個人の自由を障害し、人の心に自由への愛を保つ役割を果たす。
アメリカは宗教、公共団体、町内会、家族などの中間団体が、政府の暴政を防ぎ、また、個人の暴走も防ぐ防波堤の役割を果たすことを知る必要がある。
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あとがき
トクヴィルは1830年代のアメリカの民主主義を見て、民主主義は将来的に危機(=多数者の専制)に陥ることを予見していました。現代に時間軸を移すと、そうした傾向は、特に1980年代以降の新自由主義の台頭とともに、顕著に現れ始めたように思われます。日本においても1990年代から、公共団体や政党の派閥の解体といった中間団体を壊す方向へと進んでいきました。その結果、日本の民主主義はどういった変容を遂げたでしょうか。
トクヴィルの約200年後を生きる私たちは、今なお彼から学ぶことが多いように思われます。
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